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ハリケーン・カトリーナの被災地にて

 昨春、学生団体によるハリケーンカトリーナの被災地ボランティアに1週間参加し、ニューオーリンズに行った。
 ハリケーン・カトリーナとは、2005年8月末にアメリカ南部を襲い、2000人近くの死亡・行方不明者を出した巨大なハリケーン(台風)である。台風そのものの被害もすさまじかったが、政府の対策があまりに迅速さ・適切さを欠き、そのために多くの人が命を落としたことからも、「この超大国アメリカで!」と多くのアメリカ人が衝撃を受けた出来事であった。
 直後から、多くのボランティアが精力的に活動をした。学生も、Student Hurricane Network(SHN)という団体を立ち上げ、130程の大学から学生が参加して、現在まで支援を続けている。今もなお、多くの学生が現地を訪れ、ボランティア活動を続けている。私が参加したこの3月第3週にも、全米30校以上のロースクールから学生が訪れていた。

■プロジェクト
 残る最大の問題は、戻る家がない多くの人が、未だにトレーラーの中での生活を余儀なくされているということである。阪神大震災の仮設住宅と同じ状況である。
 私が参加したのは、「FEMA/HUMAN RIGHTS」というプロジェクトであったが、これは、未だトレーラーで生活せざるをえない人たちのトレーラーを一軒一軒回って、法律上の問題を抱えていないか、政府との関係で悩まされていることはないか、聞き取りをするというものであった。「FEMA」とはFederal Emergency Management Agency(連邦緊急対応エージェンシー)の略である。FEMAは連邦政府の国土安全保障省の中で、カトリーナ被害において住宅の整備などの責任を受け持った組織であるが、この学生のプロジェクトは、名前にFEMAとあるように、政府の対策の問題点を避難者から聞き取るのが第一の目的(!)というプロジェクトであった。このことから、このハリケーンを巡る政府の対応が、いかに批判の対象となっているかがよく分かるし、さらにいえば、「そもそも政府というものは常に批判されるべき対象である」という国民性が良く表れている(ハリケーンに限らず一般的に、アメリカでは保守派であっても、確実にそういう意識をもっている。これは日本と全く違う国民性である、と思う。)。

■トレーラーパーク
 学生たちは、朝、ニューオーリンズの地元の大学に集まり、その日の担当トレーラーパークを聞いて、車に分乗して現地に向かう。トレーラーパーク(Trailer park)とは、トレーラーが停車されているエリアのことである。トレーラーパークはニューオーリンズの街中にもあったが、私が回った3カ所は、どこも、郊外の家がほとんどまばらになった自然豊かな地域で、いきなり、大量のトレーラー群が目に飛び込んでくる、というイメージのところであった。林のある一角が区切られトレーラーパークとして指定され、その中の区画に整然と大量のトレーラーが並べられている。各トレーラーには順に番号がつけられ、トレーラーパークはさながら小さな街のようになっている。
 ここでいうトレーラーとは、いわばキャンピングカーであるが、誤解を恐れずに言えば、日本で想像するキャンピングカーよりは相当立派である。トレーラーパークでの生活は、町外れのいわば森の中で、いつ追い出されるともしれず住み続けるもので、悲惨なものであることは間違いないが、広さと中の設備の充実度(冷蔵庫・テレビ・ソファーなど)の点では、東京中心部のワンルームマンションなどよりは確実に上である。

■被災者へのインタビュー
 私は、トレーラーを一軒一軒まわり、避難している住民にインタビューをした。聞くべき質問集が学生団体から用意されていたが、質問は、FEMA(合衆国政府)の対応についてのものが中心で、政府から立ち退きを迫られていないか、政府は市内への引っ越し・定住について助けてくれるか、政府が現地に撒いた薬による健康被害が生じていないか、などである。ほか、市内への再定住の最大の障害は何か、土地や家族問題など法律問題は抱えていないか、という質問もした。また、被災者が確実に所得税の還付を受けられるようにするというのも、私たちの仕事であった。
 被災後3年近くトレイラーで住んでいる人が多かった。多くの人の希望は、早くここから出たい、というものであったが、戻る場所もなく、家を借りても家賃も払えない、と多くが嘆いていた。ニューオーリンズ市内に引っ越して家族用の家を借りると月に800ドル(約8~9万円)がかかるが、それを支払うことができないということであった。
 また2008年6月までに立ち退くようにと政府に迫られている人が多かったが、行く当てがない。また、市内に残った壊れた家を直す費用が必要だと政府に頼んでいるのに、政府からは、「賃貸住宅に引っ越したら、家賃を月々支給する」と言われており、壊れた家を直して移り住むことができない、家賃の支給はあっても引っ越し費用の支給がないから引っ越しできない、と言っている人もいた。
 法律相談、政府への不満などを学生がうけても解答はできないため、必要な相談を集約して、ニューオーリンズの弁護士団体や他のNGOに振り分け、必要な団体が対応することになっていた。一緒に回ったオーウィンは「何も助けてあげられないのに、嫌な記憶だけ思い出させていて、いい気持ちがしない」と言っていた。話すことのできた避難者の方々は概してとても親切で、丁寧に想いを聞かせてくれた。
 ある一角には近づかないように、と管理団体から言われた。ドラッグ中毒やアルコール中毒の人のトレーラーが集められているという。トレーラーパークの生活は鬱屈したものであって、そういうものに手を出したくなる気持ちもわからないでもない、と学生たちと話をした。
 貧しい黒人の生活が復興していない、と聞いていたが、私が回ったトレーラーの避難者がほとんど全員が白人であったのには、学生皆が驚いていた。
 
■Ninth word (第9地区)
 ハリケーン当時、湖の堤防が決壊し一面が水の中に沈んだエリアNinth word(第9地区)も訪れた。当時は一戸建ての一階の屋根の上まで水がかぶったとのこと。なかなか再建作業は進まず、2年半たった現在でも、幾分か新しい建物が建てられ人々が戻ってきている様子もうかがわれたが、その多くは、倒壊した家のがれきが撤去されて更地になったままである。未だ被害にあった建物が、被害にあったままの形で建っているのも散見された。
 
■プロボノ活動(公益のための活動)
 一週間学生が被災地に来て何ができるかというと、直接の効果の程は定かではない。もっとも、ロースクールの学生が、弁護士になる前にそういった活動を行うことは、その後の弁護士人生に大きな影響を与える可能性があり、大変有意義であると、私は思う。
コロンビア・ロースクールでは、毎年春休み、多くの学生が、ハリケーンカトリーナの被害地以外にも、プエルトリコ、ロサンゼルス、またNY市内のNGO(グアンタナモのケースを扱っている団体など)等の各地で、プロボノ活動・・・例えば少年犯罪問題や刑務所の処遇問題・・・に取り組んでいる。普段から、学生にはプロボノ義務があり、卒業までに40時間のプロボノ活動を行わなければならない。(だから、プロボノ活動といってもみながボランティア精神にあふれて参加しているわけでもない。もっとも、やる気にあふれた人ももちろんたくさんいたし、ニューオーリンズで一緒だった他のロースクールの多くではプロボノ義務はなかったが多くの学生が自主的に参加していた。)。しかし、たとえ義務であったとしても、全く機会がないよりは、人生に一度でも、そういった体験をすることは、その後の弁護士としての意識を大きく変えることは間違いない。
 弁護士になってからも、例えばNY州では、強制力はないがプロボノ義務がある。義務うんぬんにかかわらず、そもそも、巨額な金を稼いでいる法律事務所でも、プロボノをやっていることを看板にして宣伝しているところも少なくない。日本での私の仕事を説明すると「それはプロボノ活動としてか?」と言われたりして、その度に、私は、「いや、それは、私の仕事の全てである」と思って、複雑な気持ちになったりする。が、大企業や大企業弁護士が、公益活動をするということが表面上だけでも「あるべき姿である」となっていることは、十分ではないにしても素晴らしい一歩であると思う。日本の大企業や大企業弁護士の間にも、わずかにでもそういった意識が芽生え始めているようにも思わなくもなく、この傾向が進むことを期待したい・・・。
 もっとも、そもそもの社会問題に対する個々人の向き合い方が、日本とアメリカとでは全然違うのだが・・・。 

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*「トレーラーハウスが立ち並ぶトレーラーパーク」

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*「被災者の方に聞き取りをする」

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*「トレイラーパーク内のコインランドリーの張り紙。他の人の敷地に入ってはいけません。他の人の電話やトイレ、その他全ての物を借りてはいけません。・・・鬱屈した状況下で人々の争いごとが絶えない様子がよく分かる」

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*「水壁が決壊して、住宅地(写真右側)がみな水没した。今なお更地部分が多い。川はミシシッピ川」

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*「窓ガラスが全て割れ廃屋になりながら、未だ取り壊されない家がたくさん残っている Ninth word」

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*「売りに出されている廃屋・・・Ninth wordにて」

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*「廃屋が建ち並ぶ Ninth word」

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*「Ninth word の廃屋の中の様子」

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米国最大の国際人権NGO

現在、米国最大の国際人権NGO「ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)」の本部(NY)で研修をしている。大NGOでの経験はNGOのイメージを大きく発展させるものであり、感激の連続でもある。日本でさらに広げたいNGO文化の参考になるように思うので、ご紹介したい。

■人権侵害の、その現場にて
例えば、HRWはこんなふうに活動を展開する。
2008年8月、ロシアがグルジアに侵攻した。緊急事態局(Emergencies)を有するHRWは、直ちに軍事専門家を含む調査員を紛争地入りさせた。調査員は進行中の村の焼き討ちなどを目撃。直ちに両当時国が民間人の無差別攻撃を行っていることを世界中に報道。また、直接グルジアの防衛大臣と会談するなどして、無差別攻撃を止めるよう要請した。さらに、自ら直接得た情報を基に、両当事国への圧力を求めてEUと交渉したり、調査員がその使用を直接確認したクラスター爆弾については、これ以上民間人がクラスター爆弾により傷つかないようグルジアのテレビ局やグルジア当局がクラスター爆弾不発弾の危険性について国民に危険性を知らせるメッセージを送るよう強く求めたりした。
これらの迅速かつ即効的な活動により、HRWがその違法行為をまさに報道したその日に、ある村において、ロシアがそれまでの態度を一変し村の保護を行った。EUによる当事国への圧力は、ロシアのグルジアでの行為を抑えることにつながった。数ヶ月前に全面禁止条約が採択されたばかりのクラスター爆弾についても、ロシアの使用を直接確認し、また、その使用をグルジア政府に認めさせ、両国への国際的非難を巻き起こした。

■米国最大の国際人権NGO
HRWは1978年に設立され、アムネスティ・インターナショナル(本部ロンドン)に継ぐ世界第二の規模を誇る国際人権NGOである(http://www.hrw.org/)。275名以上の正規スタッフの半分以上は弁護士であり、ほかジャーナリスト、学者や元政治家、金融機関出身者などがいる。本部のNYオフィスは、NYの顔であるエンパイアステートビルの34階と35階の2フロアにある。アジア局、米国局、アフリカ局などの地域別部局や、子ども局や女性局、国際司法プログラム(国際刑事裁判所(ICC)などを取り扱う)、緊急対応局などテーマ別部局があり、また、法律・政策局、Development局(寄付など)など、組織運営に関わる部局がある。
その主たる活動は、緊急事態であれ継続的事態であれ、調査員が世界中の人権侵害の現場で調査を行い、報告書やニュースリリースを発表することである。事実を国際人権・人道法に照らし、加害者、および、その事態に影響を与えうる国、国際機関などに勧告を行う。メディアを最大限利用する。さらに、政府や国際機関にロビーイングを行って、政策を変えさせていく。声明や報告書は約80の国について年間100本以上にわたり、メディアに広く掲載される。日本では、与党がNGOの発言を引くことはあまりないが、米国ではHRWのレポートが主要政治家に引用され、その言葉がニューヨークタイムズの紙面を飾ることも少なくない。
また、ICC規程の設立やクラスター爆弾禁止条約の制定など、国際人権・人道法の発展をリードし、対人地雷禁止条約の制定においては、地雷禁止国際キャンペーンの主要創設メンバーとして他のNGOと共にノーベル平和賞を受賞している。昨年12月には、国連人権賞も受賞した。
私が中でも感動したのは、スタッフがプロとしての人権活動家であることである。日々トレーニングが行われており、調査方法や報告書作成、ロビーイング方法についてのトレーニングから、現場で身の安全を守るためのトレーニング、武器の種類の見分け方のトレーニング、ジャーナリストとの接し方についてのトレーニングなどがある。
なお、資金源は寄付が中心である。少額寄付も大変ありがたいことは間違いないが、寄付のスケールが違う。例えば、年に一度資金集めのディナーが世界中で開かれるが、2008年のNYでのディナーの席は最低額1000ドル(約10万円)から。NYでも有名な大博物館「自然史博物館」を借り切ってのパーティで、著名な人権活動家の講演を聞き、HRWの一年間の活動報告映画を見るというものであった。

国際社会の様々な場面でNGOの声が取り上げられるようになったと以前紹介したが、まさにその流れをリードしているのがこのNGOである。

■ 日本のNGO
 日本のNGOはボランティアの善意のみによって支えられているというイメージが強い。私自身、弁護士として日本で人権活動を続けてきたが、もう少し睡眠時間がもてる(そのためには人権活動自体で生活がもう少しは成り立つ)形でなければ、一生は続けられないことも実感していた。
HRWの職員は、プロの仕事として、そして人間的な生活の中で、圧倒的に影響力のある人権活動を展開している。日本社会にこうしたNGO文化は根付くのか、何がそんなに日本と米国と違うのかと思うが、一見して気がつくのは、社会の中での市民運動の位置づけや人々の市民運動への関与の仕方、そして、寄付文化の存在と寄付控除を受けられる税制度の違いである。
日本でも、昨年12月に「公益社団法人及び公益財団法人の認定に関する法律」が施行され「公益法人」と認定されたNGOについては、その団体への寄付者が税金の控除を受けられるようになった。今、私がHRWで担当している作業は、この新法を利用してのHRWの日本オフィスの立ち上げ(2009年4月開設)。今後、日本でもNGO(市民運動)がこれまでに増して影響力を持てるようになるとよい。
この大NGOを体験したあと、どのようにしたら、「持続可能」で「影響力のある」市民活動を日本に根付かせられるか、それが、現在の課題である。(2009年 「まなぶ」 2月号掲載)


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*「ヒューマン・ライツ・ウォッチの入り口ドア。」

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*「ノーベル平和賞のメダル。地雷廃絶キャンペーンの創立メンバーとして他の
NGOと共に受賞した」

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*ヒューマン・ライツ・ウォッチ事務所の内部。

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*ヒューマン・ライツ・ウォッチ事務所の受付。

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中米とカリブとアメリカと(下)

~プエルトリコ

ロースクールにアネッタというプエルトリコ出身の弁護士がいた。独立運動を活発に行ってきた家の出身であり、米国の圧政、独立への希望についていつも熱く語っていた。昨冬(2008年1月)、彼女の結婚式に呼ばれ、プエルトリコを訪問した。

■プエルトリコの米軍基地
プエルトリコはカリブ海に浮かぶ人口約390万人、四国の半分程度の面積の島およびその周辺の諸島部である。米国自治連邦区で地方自治の一部のみが認められるが、国防や外交は米国が決定する。
 アネッタの自慢が、プエルトリコ人が米軍をビエケス島から追い出したこと。ビエケス島とは、プエルトリコ本島の東に位置する長さ33.6キロ、幅6.4キロの人口9300人の小島である。60年以上もの間、米軍基地に島の3分の2以上を占拠されていた。
1941年、米海軍は島の3分の2を強制収容した。住民は告知から24時間の猶予が与えられただけで、強制的にブルドーザーで建物を壊された。島は演習地と弾薬貯蔵地として使用され、演習地は米大西洋艦隊にとって実弾が使える唯一の場所として、戦闘機銃撃や上陸演習などの実戦訓練が米軍やNATO軍により行われた。
島民への影響はすさまじく、主要産業であったサトウキビ農場と砂糖工場はつぶされ、失業率が60パーセント台から下がることはなく、多くが島外に逃れた。実弾射撃や劣化ウラン弾から生じる有害物質により島民が危険にさらされ、ガン発生率は本島より27%高かった。誤爆による島民の死亡事件もあった。

■基地返還運動とその勝利
1999年4月に民間人デイビッド・サネスが誤爆で殺されると、土地返還運動が盛り上がった。演習場内での座り込みが開始され、本島からも支援が続き、基地反対の大合唱となっていった。テントを持ち込んでの座り込みは逮捕者が数千人にも上り、ビエケス市長も長期間拘束された。学生であったアネッタも、大学でカンパや食べ物を集めて送り、入れ替わり友達がビエケス島で座り込みをしたと話していた。
2001年の住民投票で68%の住民が米軍の「即時」撤退の意思表示を行い、遂に2003年に米海軍が撤退。2005年の終わりまでに多くの権限が移譲された。もっとも、広いエリアが放射能で汚染されているため進入禁止エリアが未だ少なくない。
反対運動の中心を努めた漁師に小さな漁船に乗せてもらって島の周りを回ったが、エメラルドグリーンのカリブ海で、放射能を放出し続ける銃弾が沈んでいたり、爆撃演習で木も草もなくなり形がまったく変わってしまったという無人島を目にしたりした。

アネッタの結婚式に行くことになったとき、ご両親からアネッタは、「どうして日本人を呼ぶんだ」と言われたという。米国の言いなりになっているような人たちには来てほしくない、ということだそうだ。そして、どうしてこんなちっぽけな小島が米国に抵抗しているのに、大国日本はなぜそうできないのか、と。(2009年 「まなぶ」 2月号掲載)

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*座り込みをする人を逮捕する当局
(El Fortin Conde de Mirasol博物館より)

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*ビエケスに平和を!(Peace for Vieques)

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爆撃演習に使われたビエケス島に隣接する小島。もとの島の形は全く残っていな
い。

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*弾薬庫。今は閉鎖されている。中にはいることはできない。
*不発弾などがあり進入禁止となっている。一見、美しいビーチとエメラルドの海
が広がっているが・・・。

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