首都ワシントンで、日本の政権交代を体験して

■■■首都ワシントンで、日本の政権交代を体験して■■■

8月にNYからアメリカの首都ワシントンDCに引っ越した。NY便りもまだ書きためたものがあるため随時掲載したいが、これからワシントンの情報も書いていきたい。

ワシントンは、NYとは全然違って緑豊かなこじんまりした町。政治の町であり、ここで米国政治のバトルが行われている。この町のキーワードは「ネットワーキング」。どこに行っても名刺交換。ワシントンに来て1ヶ月だが、既にNYにいた2年間と同じくらい名刺を交換した気がする。

日本の政権交代をワシントンから見たのは、とても貴重な体験だった。ここには、米国政府はもちろんのこと、その政府のブレインとなっているシンクタンクが山のようにあるが、各シンクタンクが、日本の選挙後、次々「日本、政権交代!日米関係どうなる?」というシンポジウムを開催した。

■日本報道陣が頼っている米国政府情報
日本関係のイベントは人が集まらなくなったと聞くが、このときばかりは100人、200人もの人が、連日、どのイベントにも集まっていた。いくつか参加したが、当然、パネリストは今までの対日外交を担当してきた人たち(でなきゃ、語るほど対日外交について知識がない)。つまりパネリストは、自民党を得意としてきて、日本に伝わってくる「アメリカ政府の声」を作ってきた人たち(「憲法変えろ」とか、「イラクに自衛隊を派兵せよ」とか言ってきた人たち。)。基本的に「対米政策について不安がある」「今までと同じ路線を採ると信じるしかない」「情報がない」といったところか。「期待したい」という声もあった。

そりゃ不安に決まっている、これまであなた方がつきあってきた相手とは違う相手(であるはずの相手)なんだから。・・・しかし、話を聞いていると、「大変なことになってしまった。」という「懸念」ではなく、「情報がなくてわからん。」という「懸念」が大きそうである。
・・・しかし、このパネリストの「懸念発言」が、数時間後、日本の新聞を飾る。

とある日本のテレビ局が、ネオコンの正に牙城であるシンクタンクのシンポ会場で「鳩山政権になって日米関係はどうなると思いますか」という投票アンケートをやっていた(回答者はボードにシールを貼る。良くなる・悪くなるの回答欄あり。両者の真ん中にも貼れる)。
しかし、この会場でやれば「悪くなる」という回答が多くなるに決まっている(実際、私が見た時点ではそうなっていた。)。ここでやるなら、バランスをとるため、私の働いているヒューマン・ライツ・ウォッチあたりでも聞いてくれ、と思ったが、言う機会を逃した。でも、これまた、これが日本で「アメリカの声」として堂々と報道されるのである。

そんなシンポジウムからの発言やアンケート調査によって、「米国政府関係者から懸念が提示!!!」などと報道がなされ、日本がビビり、動かされるのだとすると・・・、こんな私でも、ワシントンにいてなにかできるかもしれない、と思う。

■わずかな人によって決められる対日外交
私自身はまだワシントン初心者だが、ワシントン在住の日本人は口を揃えて、「ごくわずかな人によって対日政策が決定されている」と話す。確かに、シンポジウムに行っても日米関係の実質・具体的な政策の話ができるのは5人くらい、多くても10人くらい。その10人で、アメリカの対日政策を決めてきただけなら、アメリカが勝手にやることだから構わないけれど、その5人だか10人だかによって、実際には日本の国内政治もほぼ動かされてきたということを考えると、本当に許しがたい。
「アーミテージ・レポートは、ほぼ全て実現させた。憲法改正だけが残った課題だが。」
という言葉などを聴くと大変いらいらする。(アーミテージ・レポートは前ブッシュ政権における対日政策の要となる文章)。

■さて、ワシントン。
あと2年間滞在予定のワシントンで、何がどこまでできるか、どこまで食い込めるか、全く分からないが、あいもかわらず、ジタバタしてみようと思う。
これをお読みくださった方。具体的に、ワシントンで私にお手伝いできることがあれば、いつでもアドバイスください!

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「ホワイトハウス」

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「連邦議会議事堂・・・国民保険で紛糾中」

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ハリケーン・カトリーナの被災地にて

 昨春、学生団体によるハリケーンカトリーナの被災地ボランティアに1週間参加し、ニューオーリンズに行った。
 ハリケーン・カトリーナとは、2005年8月末にアメリカ南部を襲い、2000人近くの死亡・行方不明者を出した巨大なハリケーン(台風)である。台風そのものの被害もすさまじかったが、政府の対策があまりに迅速さ・適切さを欠き、そのために多くの人が命を落としたことからも、「この超大国アメリカで!」と多くのアメリカ人が衝撃を受けた出来事であった。
 直後から、多くのボランティアが精力的に活動をした。学生も、Student Hurricane Network(SHN)という団体を立ち上げ、130程の大学から学生が参加して、現在まで支援を続けている。今もなお、多くの学生が現地を訪れ、ボランティア活動を続けている。私が参加したこの3月第3週にも、全米30校以上のロースクールから学生が訪れていた。

■プロジェクト
 残る最大の問題は、戻る家がない多くの人が、未だにトレーラーの中での生活を余儀なくされているということである。阪神大震災の仮設住宅と同じ状況である。
 私が参加したのは、「FEMA/HUMAN RIGHTS」というプロジェクトであったが、これは、未だトレーラーで生活せざるをえない人たちのトレーラーを一軒一軒回って、法律上の問題を抱えていないか、政府との関係で悩まされていることはないか、聞き取りをするというものであった。「FEMA」とはFederal Emergency Management Agency(連邦緊急対応エージェンシー)の略である。FEMAは連邦政府の国土安全保障省の中で、カトリーナ被害において住宅の整備などの責任を受け持った組織であるが、この学生のプロジェクトは、名前にFEMAとあるように、政府の対策の問題点を避難者から聞き取るのが第一の目的(!)というプロジェクトであった。このことから、このハリケーンを巡る政府の対応が、いかに批判の対象となっているかがよく分かるし、さらにいえば、「そもそも政府というものは常に批判されるべき対象である」という国民性が良く表れている(ハリケーンに限らず一般的に、アメリカでは保守派であっても、確実にそういう意識をもっている。これは日本と全く違う国民性である、と思う。)。

■トレーラーパーク
 学生たちは、朝、ニューオーリンズの地元の大学に集まり、その日の担当トレーラーパークを聞いて、車に分乗して現地に向かう。トレーラーパーク(Trailer park)とは、トレーラーが停車されているエリアのことである。トレーラーパークはニューオーリンズの街中にもあったが、私が回った3カ所は、どこも、郊外の家がほとんどまばらになった自然豊かな地域で、いきなり、大量のトレーラー群が目に飛び込んでくる、というイメージのところであった。林のある一角が区切られトレーラーパークとして指定され、その中の区画に整然と大量のトレーラーが並べられている。各トレーラーには順に番号がつけられ、トレーラーパークはさながら小さな街のようになっている。
 ここでいうトレーラーとは、いわばキャンピングカーであるが、誤解を恐れずに言えば、日本で想像するキャンピングカーよりは相当立派である。トレーラーパークでの生活は、町外れのいわば森の中で、いつ追い出されるともしれず住み続けるもので、悲惨なものであることは間違いないが、広さと中の設備の充実度(冷蔵庫・テレビ・ソファーなど)の点では、東京中心部のワンルームマンションなどよりは確実に上である。

■被災者へのインタビュー
 私は、トレーラーを一軒一軒まわり、避難している住民にインタビューをした。聞くべき質問集が学生団体から用意されていたが、質問は、FEMA(合衆国政府)の対応についてのものが中心で、政府から立ち退きを迫られていないか、政府は市内への引っ越し・定住について助けてくれるか、政府が現地に撒いた薬による健康被害が生じていないか、などである。ほか、市内への再定住の最大の障害は何か、土地や家族問題など法律問題は抱えていないか、という質問もした。また、被災者が確実に所得税の還付を受けられるようにするというのも、私たちの仕事であった。
 被災後3年近くトレイラーで住んでいる人が多かった。多くの人の希望は、早くここから出たい、というものであったが、戻る場所もなく、家を借りても家賃も払えない、と多くが嘆いていた。ニューオーリンズ市内に引っ越して家族用の家を借りると月に800ドル(約8~9万円)がかかるが、それを支払うことができないということであった。
 また2008年6月までに立ち退くようにと政府に迫られている人が多かったが、行く当てがない。また、市内に残った壊れた家を直す費用が必要だと政府に頼んでいるのに、政府からは、「賃貸住宅に引っ越したら、家賃を月々支給する」と言われており、壊れた家を直して移り住むことができない、家賃の支給はあっても引っ越し費用の支給がないから引っ越しできない、と言っている人もいた。
 法律相談、政府への不満などを学生がうけても解答はできないため、必要な相談を集約して、ニューオーリンズの弁護士団体や他のNGOに振り分け、必要な団体が対応することになっていた。一緒に回ったオーウィンは「何も助けてあげられないのに、嫌な記憶だけ思い出させていて、いい気持ちがしない」と言っていた。話すことのできた避難者の方々は概してとても親切で、丁寧に想いを聞かせてくれた。
 ある一角には近づかないように、と管理団体から言われた。ドラッグ中毒やアルコール中毒の人のトレーラーが集められているという。トレーラーパークの生活は鬱屈したものであって、そういうものに手を出したくなる気持ちもわからないでもない、と学生たちと話をした。
 貧しい黒人の生活が復興していない、と聞いていたが、私が回ったトレーラーの避難者がほとんど全員が白人であったのには、学生皆が驚いていた。
 
■Ninth word (第9地区)
 ハリケーン当時、湖の堤防が決壊し一面が水の中に沈んだエリアNinth word(第9地区)も訪れた。当時は一戸建ての一階の屋根の上まで水がかぶったとのこと。なかなか再建作業は進まず、2年半たった現在でも、幾分か新しい建物が建てられ人々が戻ってきている様子もうかがわれたが、その多くは、倒壊した家のがれきが撤去されて更地になったままである。未だ被害にあった建物が、被害にあったままの形で建っているのも散見された。
 
■プロボノ活動(公益のための活動)
 一週間学生が被災地に来て何ができるかというと、直接の効果の程は定かではない。もっとも、ロースクールの学生が、弁護士になる前にそういった活動を行うことは、その後の弁護士人生に大きな影響を与える可能性があり、大変有意義であると、私は思う。
コロンビア・ロースクールでは、毎年春休み、多くの学生が、ハリケーンカトリーナの被害地以外にも、プエルトリコ、ロサンゼルス、またNY市内のNGO(グアンタナモのケースを扱っている団体など)等の各地で、プロボノ活動・・・例えば少年犯罪問題や刑務所の処遇問題・・・に取り組んでいる。普段から、学生にはプロボノ義務があり、卒業までに40時間のプロボノ活動を行わなければならない。(だから、プロボノ活動といってもみながボランティア精神にあふれて参加しているわけでもない。もっとも、やる気にあふれた人ももちろんたくさんいたし、ニューオーリンズで一緒だった他のロースクールの多くではプロボノ義務はなかったが多くの学生が自主的に参加していた。)。しかし、たとえ義務であったとしても、全く機会がないよりは、人生に一度でも、そういった体験をすることは、その後の弁護士としての意識を大きく変えることは間違いない。
 弁護士になってからも、例えばNY州では、強制力はないがプロボノ義務がある。義務うんぬんにかかわらず、そもそも、巨額な金を稼いでいる法律事務所でも、プロボノをやっていることを看板にして宣伝しているところも少なくない。日本での私の仕事を説明すると「それはプロボノ活動としてか?」と言われたりして、その度に、私は、「いや、それは、私の仕事の全てである」と思って、複雑な気持ちになったりする。が、大企業や大企業弁護士が、公益活動をするということが表面上だけでも「あるべき姿である」となっていることは、十分ではないにしても素晴らしい一歩であると思う。日本の大企業や大企業弁護士の間にも、わずかにでもそういった意識が芽生え始めているようにも思わなくもなく、この傾向が進むことを期待したい・・・。
 もっとも、そもそもの社会問題に対する個々人の向き合い方が、日本とアメリカとでは全然違うのだが・・・。 

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*「トレーラーハウスが立ち並ぶトレーラーパーク」

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*「被災者の方に聞き取りをする」

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*「トレイラーパーク内のコインランドリーの張り紙。他の人の敷地に入ってはいけません。他の人の電話やトイレ、その他全ての物を借りてはいけません。・・・鬱屈した状況下で人々の争いごとが絶えない様子がよく分かる」

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*「水壁が決壊して、住宅地(写真右側)がみな水没した。今なお更地部分が多い。川はミシシッピ川」

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*「窓ガラスが全て割れ廃屋になりながら、未だ取り壊されない家がたくさん残っている Ninth word」

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*「売りに出されている廃屋・・・Ninth wordにて」

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*「廃屋が建ち並ぶ Ninth word」

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*「Ninth word の廃屋の中の様子」

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米国最大の国際人権NGO

現在、米国最大の国際人権NGO「ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)」の本部(NY)で研修をしている。大NGOでの経験はNGOのイメージを大きく発展させるものであり、感激の連続でもある。日本でさらに広げたいNGO文化の参考になるように思うので、ご紹介したい。

■人権侵害の、その現場にて
例えば、HRWはこんなふうに活動を展開する。
2008年8月、ロシアがグルジアに侵攻した。緊急事態局(Emergencies)を有するHRWは、直ちに軍事専門家を含む調査員を紛争地入りさせた。調査員は進行中の村の焼き討ちなどを目撃。直ちに両当時国が民間人の無差別攻撃を行っていることを世界中に報道。また、直接グルジアの防衛大臣と会談するなどして、無差別攻撃を止めるよう要請した。さらに、自ら直接得た情報を基に、両当事国への圧力を求めてEUと交渉したり、調査員がその使用を直接確認したクラスター爆弾については、これ以上民間人がクラスター爆弾により傷つかないようグルジアのテレビ局やグルジア当局がクラスター爆弾不発弾の危険性について国民に危険性を知らせるメッセージを送るよう強く求めたりした。
これらの迅速かつ即効的な活動により、HRWがその違法行為をまさに報道したその日に、ある村において、ロシアがそれまでの態度を一変し村の保護を行った。EUによる当事国への圧力は、ロシアのグルジアでの行為を抑えることにつながった。数ヶ月前に全面禁止条約が採択されたばかりのクラスター爆弾についても、ロシアの使用を直接確認し、また、その使用をグルジア政府に認めさせ、両国への国際的非難を巻き起こした。

■米国最大の国際人権NGO
HRWは1978年に設立され、アムネスティ・インターナショナル(本部ロンドン)に継ぐ世界第二の規模を誇る国際人権NGOである(http://www.hrw.org/)。275名以上の正規スタッフの半分以上は弁護士であり、ほかジャーナリスト、学者や元政治家、金融機関出身者などがいる。本部のNYオフィスは、NYの顔であるエンパイアステートビルの34階と35階の2フロアにある。アジア局、米国局、アフリカ局などの地域別部局や、子ども局や女性局、国際司法プログラム(国際刑事裁判所(ICC)などを取り扱う)、緊急対応局などテーマ別部局があり、また、法律・政策局、Development局(寄付など)など、組織運営に関わる部局がある。
その主たる活動は、緊急事態であれ継続的事態であれ、調査員が世界中の人権侵害の現場で調査を行い、報告書やニュースリリースを発表することである。事実を国際人権・人道法に照らし、加害者、および、その事態に影響を与えうる国、国際機関などに勧告を行う。メディアを最大限利用する。さらに、政府や国際機関にロビーイングを行って、政策を変えさせていく。声明や報告書は約80の国について年間100本以上にわたり、メディアに広く掲載される。日本では、与党がNGOの発言を引くことはあまりないが、米国ではHRWのレポートが主要政治家に引用され、その言葉がニューヨークタイムズの紙面を飾ることも少なくない。
また、ICC規程の設立やクラスター爆弾禁止条約の制定など、国際人権・人道法の発展をリードし、対人地雷禁止条約の制定においては、地雷禁止国際キャンペーンの主要創設メンバーとして他のNGOと共にノーベル平和賞を受賞している。昨年12月には、国連人権賞も受賞した。
私が中でも感動したのは、スタッフがプロとしての人権活動家であることである。日々トレーニングが行われており、調査方法や報告書作成、ロビーイング方法についてのトレーニングから、現場で身の安全を守るためのトレーニング、武器の種類の見分け方のトレーニング、ジャーナリストとの接し方についてのトレーニングなどがある。
なお、資金源は寄付が中心である。少額寄付も大変ありがたいことは間違いないが、寄付のスケールが違う。例えば、年に一度資金集めのディナーが世界中で開かれるが、2008年のNYでのディナーの席は最低額1000ドル(約10万円)から。NYでも有名な大博物館「自然史博物館」を借り切ってのパーティで、著名な人権活動家の講演を聞き、HRWの一年間の活動報告映画を見るというものであった。

国際社会の様々な場面でNGOの声が取り上げられるようになったと以前紹介したが、まさにその流れをリードしているのがこのNGOである。

■ 日本のNGO
 日本のNGOはボランティアの善意のみによって支えられているというイメージが強い。私自身、弁護士として日本で人権活動を続けてきたが、もう少し睡眠時間がもてる(そのためには人権活動自体で生活がもう少しは成り立つ)形でなければ、一生は続けられないことも実感していた。
HRWの職員は、プロの仕事として、そして人間的な生活の中で、圧倒的に影響力のある人権活動を展開している。日本社会にこうしたNGO文化は根付くのか、何がそんなに日本と米国と違うのかと思うが、一見して気がつくのは、社会の中での市民運動の位置づけや人々の市民運動への関与の仕方、そして、寄付文化の存在と寄付控除を受けられる税制度の違いである。
日本でも、昨年12月に「公益社団法人及び公益財団法人の認定に関する法律」が施行され「公益法人」と認定されたNGOについては、その団体への寄付者が税金の控除を受けられるようになった。今、私がHRWで担当している作業は、この新法を利用してのHRWの日本オフィスの立ち上げ(2009年4月開設)。今後、日本でもNGO(市民運動)がこれまでに増して影響力を持てるようになるとよい。
この大NGOを体験したあと、どのようにしたら、「持続可能」で「影響力のある」市民活動を日本に根付かせられるか、それが、現在の課題である。(2009年 「まなぶ」 2月号掲載)


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*「ヒューマン・ライツ・ウォッチの入り口ドア。」

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*「ノーベル平和賞のメダル。地雷廃絶キャンペーンの創立メンバーとして他の
NGOと共に受賞した」

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*ヒューマン・ライツ・ウォッチ事務所の内部。

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*ヒューマン・ライツ・ウォッチ事務所の受付。

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中米とカリブとアメリカと(下)

~プエルトリコ

ロースクールにアネッタというプエルトリコ出身の弁護士がいた。独立運動を活発に行ってきた家の出身であり、米国の圧政、独立への希望についていつも熱く語っていた。昨冬(2008年1月)、彼女の結婚式に呼ばれ、プエルトリコを訪問した。

■プエルトリコの米軍基地
プエルトリコはカリブ海に浮かぶ人口約390万人、四国の半分程度の面積の島およびその周辺の諸島部である。米国自治連邦区で地方自治の一部のみが認められるが、国防や外交は米国が決定する。
 アネッタの自慢が、プエルトリコ人が米軍をビエケス島から追い出したこと。ビエケス島とは、プエルトリコ本島の東に位置する長さ33.6キロ、幅6.4キロの人口9300人の小島である。60年以上もの間、米軍基地に島の3分の2以上を占拠されていた。
1941年、米海軍は島の3分の2を強制収容した。住民は告知から24時間の猶予が与えられただけで、強制的にブルドーザーで建物を壊された。島は演習地と弾薬貯蔵地として使用され、演習地は米大西洋艦隊にとって実弾が使える唯一の場所として、戦闘機銃撃や上陸演習などの実戦訓練が米軍やNATO軍により行われた。
島民への影響はすさまじく、主要産業であったサトウキビ農場と砂糖工場はつぶされ、失業率が60パーセント台から下がることはなく、多くが島外に逃れた。実弾射撃や劣化ウラン弾から生じる有害物質により島民が危険にさらされ、ガン発生率は本島より27%高かった。誤爆による島民の死亡事件もあった。

■基地返還運動とその勝利
1999年4月に民間人デイビッド・サネスが誤爆で殺されると、土地返還運動が盛り上がった。演習場内での座り込みが開始され、本島からも支援が続き、基地反対の大合唱となっていった。テントを持ち込んでの座り込みは逮捕者が数千人にも上り、ビエケス市長も長期間拘束された。学生であったアネッタも、大学でカンパや食べ物を集めて送り、入れ替わり友達がビエケス島で座り込みをしたと話していた。
2001年の住民投票で68%の住民が米軍の「即時」撤退の意思表示を行い、遂に2003年に米海軍が撤退。2005年の終わりまでに多くの権限が移譲された。もっとも、広いエリアが放射能で汚染されているため進入禁止エリアが未だ少なくない。
反対運動の中心を努めた漁師に小さな漁船に乗せてもらって島の周りを回ったが、エメラルドグリーンのカリブ海で、放射能を放出し続ける銃弾が沈んでいたり、爆撃演習で木も草もなくなり形がまったく変わってしまったという無人島を目にしたりした。

アネッタの結婚式に行くことになったとき、ご両親からアネッタは、「どうして日本人を呼ぶんだ」と言われたという。米国の言いなりになっているような人たちには来てほしくない、ということだそうだ。そして、どうしてこんなちっぽけな小島が米国に抵抗しているのに、大国日本はなぜそうできないのか、と。(2009年 「まなぶ」 2月号掲載)

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*座り込みをする人を逮捕する当局
(El Fortin Conde de Mirasol博物館より)

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*ビエケスに平和を!(Peace for Vieques)

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爆撃演習に使われたビエケス島に隣接する小島。もとの島の形は全く残っていな
い。

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*弾薬庫。今は閉鎖されている。中にはいることはできない。
*不発弾などがあり進入禁止となっている。一見、美しいビーチとエメラルドの海
が広がっているが・・・。

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中米とカリブとアメリカと(中)

~キューバ

 今回は、キューバ。現在のキューバの街の様子を体験(2008年9月)したままお伝えしたい。

■キューバの発展と貧しさと
 「社会主義」経済が成功している国ともいわれるキューバであるが、人々の生活は、それなりに貧しい。ビルはみな古く、まだ走れるのかと思うくらいの車が街を行き来し、一昔前にタイムスリップしたようである。私が宿泊したカサ・デ・パティキュラ(個人住宅の一室に泊めてもらう民宿。)でも、水が出なくなったり、台風グスタフで停電した後24時間が過ぎても復旧しなかったりした。
 しかし、キューバ革命(1959年)前の貧しさ、例えば識字率も低く(非識字率23.6%)、新生児死亡率(農村地域では6~7%の死亡率であったとのこと)も今より高かった状態を考えれば、革命が成功と評価されていることは実感できる(1988年までには非識字率は1.5%に減少、新生児死亡率も1995年時点までに1%弱まで減少。他のラ米諸国では新生児死亡率は1995年時点で4%前後。以上数字は「キューバ・ガイド」海風書房 カルメン・アルフォンソ著)。キューバの発展は、私の体感としても、今回旅した他の中米諸国とは比べものにならない(コスタリカを除く)。
 もっとも、旧ソ連崩壊後、キューバ経済は落ち込んで、今も元のレベルまでは回復していない。そこでキューバ政府は社会主義経済を維持しながらも、外貨所持を認めたり、自由市場を創設する等、部分的に市場原理に基づく経済改革を導入したりして対応を図っている。

■アメリカとキューバ
 人々の暮らしを厳しくしている大きな理由の一つは、目と鼻の先の超大国、アメリカからの経済制裁である。国連総会でも米国の対キューバ禁輸制裁解除を求める決議が16年連続で採択されてきた((参考)2007年は、国連加盟国192か国中、賛成184、反対4(米国、イスラエル、パラオ、マーシャル諸島))、棄権1)にもかかわらず、経済制裁は46年間も続けられている。アメリカはキューバ市民を苦しめ続けてきた、と嘆くタクシードライバー(59才)に、「次の大統領選挙(2008年11月の選挙のこと)で変わるかも」と励ましたところ、「毎回毎回アメリカの選挙の度に、次の大統領を待ち続けて、もう50年になる・・・」と彼はさらに嘆きを深くした。中米の他の国の例に漏れず、アメリカがキューバに対して行っている干渉は、軍事的干渉からCIAによるカストロの暗殺計画まで、極端に過激であり続けてきた。
 貧しい生活を逃れようと、多くの人がアメリカに亡命し、有力なスポーツ選手などの亡命も続く。それに対し、「国から住居も食べ物も与えられ、医療も教育も無償で受けてきたのに、どうして、成長してから恩返しをすることもなく逃げ出すのか。恩知らず」と、怒るキューバ人にも出会った。

■ラテンアメリカ(ラ米)諸国とキューバ
 アメリカと断絶状態にあるキューバは、ラ米とのつながりに尽力している。
 例えば、チャベス大統領のベネズエラとの関係は強化され、最大貿易相手国は現在ベネズエラである。ベネズエラから原油を多く輸入し、またベネズエラへ医療支援などを行っている。私も、飛行場で、これからベネズエラに5年間派遣されるという歯医者に会った。派遣は国費だが、5年の間にキューバに戻りたいのであれば私費となり、その費用がないため、その歯医者の男性は家族とこれから5年間会えないと言いながら、見送りの幼い子どもたちと最後の時を楽しんでいた。その妻に「大変ですね」と声をかけると、「キューバはラ米諸国と協力していかなければならないから仕方がない。アメリカの政策は許せない。」などと話してくれた。
ラ米との連携はベネズエラに限られない。例えば、「世界最高レベル」を誇る医学を提供すべく、キューバ政府が奨学金を出し、ほぼ全てのラ米諸国から留学生を招きキューバで学ばせている。話を聞いたウルグアイ人医学生によると、約400人のウルグアイ人医学生がキューバの首都ハバナの大学で学んでいるとのこと。他にも多くの国から学生が医師をめざして学びに来ており、「コスタリカ人は150人程はいるし、他にも人数は分からないけれど、ほとんどのラ米の国からキューバにたくさん来ている」と話してくれた。他国の医学生は、基礎教育レベルもキューバ人学生に劣っていることが少なくないため、キューバに来た後、まずは基礎教育から受け直すこともあるとのことであった。
 自らの得意とする分野で、共通言語のスペイン語を生かし、他国に最大限貢献するキューバの外交政策である。ラ米で中道左派や左派政権が次々樹立されていることや、地理的・文化的つながりからも、ラ米諸国の連携は(アメリカ依存の状態が当面続くとしても)、キューバのみならず多くの国でこれからさらに重視されていくことであろう。

■人々の生活
 観光を重要な外貨獲得手段としている国家政府だけでなく、キューバ人個々人も外国人相手の民宿やタクシーなどで外貨を稼いで生活を維持している。社会主義経済の元、極めて安く必需品が手に入るという側面はありながら、キューバ人の多くが生活が苦しいと口々に訴える。「例えば、生活必需品として丸パン一つ(直径10センチ)を約5円(5セント)で買うことができる。ただし、その値段での購入は一日一人1つに限られており、それだけでは生活できない。」と民宿の主人。
 賃金が安いため、外貨の入手手段を持っていない市民は生活が難しい。共働きで副業を持たざるを得ず、例えば学校の先生が土日に塾の先生をやったりベビーシッターをやったりしているとのことであった。
 サンチアゴ・デ・キューバというキューバ第二の都市のバスターミナルで必死に民宿の客引きをしていた男性。宿に行って彼と話し込んでみると、彼の本職は弁護士、大学でも教鞭をとり民法や労働法を教えているとのことであった。観光客に邪険にされながら、砂ぼこりの中必死で客引きを続けるその姿を思うと切なくもなる。
 とはいえ、繰り返しになるが、他の中米諸国からは比べられない発展が今のキューバの前提として存在する。貧困層のスラム街などはないし、公園が物乞いの人だらけということもない。貧富の差が少ないことから、街は安全であり、グアテマラシティでもサンサルバドルでもマナグアでも(グアテマラ、エルサルバドル、ニカラグアの首都)聞いた現地の人からのアドバイス「一刻も早くこの街から出て行きなさい。危険すぎる。」といった言葉をキューバ(と貧富の差の少ないコスタリカ)で聞くことはなかった。

■フィデル・カストロ
 今キューバ国民はキューバ嫌いでアメリカ好きになりつつあるとも訪問前には耳にした。しかし、私が接した多くはキューバ好きであった(表向き、という話もあろうが、嫌いだという人は率直に「嫌い」と言っていたので嘘でもなかろう)。私は、旅行中「カストロは好きか」と多くの人に聞き続けたが、YESは半分強くらい、「まあ好き」を入れれば3分の2くらいであった。革命の立役者の一人チェ・ゲバラについてはごく一部を除きほぼ皆YES、キューバの建国の父とされるホセ・マルティについては間違いなく全員がYESであった。
 私は、キューバはカストロの国・カストロの独裁政権、とする日本のマスメディアにしか接したことがなかったが、少し学ぶとそうではないことがよく分かる。この国の建国の父はマルティであり、彼の存在はカストロと同じかそれ以上に国民の心に根付いている。また1959年のキューバ革命は、アメリカの傀儡政権やアメリカ企業による圧政・搾取から逃れるべく市民が支持をし続けた結果であった。悲願であった100年にわたる戦いの最後の場面が革命という形でカストロやゲバラらの手により成し遂げられたというだけであり、カストロやゲバラだけが単独で強引に革命を行ったというわけでもない。
 知識のない私なんぞ、フィデル・カストロが政権トップの座を実弟のラウルに譲ったと聞いて、この国も所詮血縁政治なのか(北朝鮮のように)と思っていた。が、今回の旅行で、ラウル以外には、現存する者でカストロやゲバラと共に革命を実行し、その後の政治体制の中心で動いてきた者はいないということも学んだ。

■様々な角度からの情報を
 国際社会の変化にしたがい、変化し続けるキューバがこれからどうなっていくのか、大変興味深い。冷戦終了を小学生で迎えた私にとって、キューバに深く興味を持つ機会はこれまであまりなかったし、日本のメディアから与えられる情報は一面的なものばかりであった。そのため、この原稿があまりに無知なものとなっていたらお許しいただきたい。これを機に、様々な視点に基づく情報を積極的に取り入れながら、この国キューバを知り続けていきたいと思う。(2008年 「まなぶ」 11月号掲載)

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*壁にゲバラが描かれている(夜は電飾でゲバラが光る)内務省のビル


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*自由市場での買い物。並んでいる商品が少ない。

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*古い車が行く首都ハバナの街。街ではところどころゲバラらの肖像が書かれている。

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*泊まったお宅での台所。この家は比較的豊かな家であったと思う。

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中米とカリブとアメリカと(上)

~グアテマラ・エルサルバドル・ニカラグア・コスタリカ・パナマ

 「中米」と言われても、縁もなく、国の名前もいくつかしか挙がらなかった私である。しかし、アメリカにいると、ラテンアメリカが急に身近になる。アメリカにいるこの機会にと、グアテマラ、エルサルバドル、ニカラグア、コスタリカ、パナマ、そして、キューバ、プエルトリコを回った(プエルトリコは2008年1月、他は2008年8月~9月)。回ってみると、(当たり前であるが)各国それぞれの特徴があり、また、アメリカ合衆国の歴史・政治(悪行の数々)を知ることにもつながり、大変面白い。体系的に文章を書くほど各国を理解しているわけではないが、体験したこと、学んだことのいくつかを取り上げてみる。

■アメリカの影響
 中米地域に一貫して言えることは、アメリカの影響が圧倒的に大きいということである。
 意のままに中南米を操りたいというアメリカの意図はここ100年以上もの間ずっと続いており、アメリカによる大規模な軍政支援や直接的軍事的介入がグアテマラでもエルサルバドルでもニカラグアでもパナマでもなされてきた。たとえば、ニカラグアでは、アメリカは左派政権を倒すべく、大量の軍事費、武器を提供してコントラと呼ばれる反政府右派ゲリラを組織・支援した。ゲリラ兵士の軍事訓練を行い、さらには、直接米軍を派遣して政権を倒そうとした。経済制裁も続け、ニカラグアは徹底的に貧しくなった。近年でアメリカが一番激しくニカラグアに介入したのは、1980年代のことだが、私の今回の訪問でも、ニカラグアの貧困は厳しいものがあった。また、ニカラグアにはアメリカ人観光客が他の国に比べると少なかった。ニカラグアの観光地でレストランを開くカナダ人に聞いたところ、「きっと、まだアメリカ人は、ニカラグアにくるのが申し訳ないんだろうね」とのこと。
 アメリカにある米軍アメリカ学校ともよばれる軍人教育校では中南米の軍事政権・軍部の幹部が養成され、独裁者も数多く排出している(パナマのノリエガ将軍、ペルーのモンテシノスなどあげればきりがない)。
 経済的搾取も広くなされてきた。パナマでは、国を支える一番の資金源であるはずの運河の主権を長期間アメリカが独占してきた(1999年に返還)。また、中米の多くの国の一大産業であるバナナ農園はアメリカ企業に管理され、多くの労働者が低賃金で働いてきた。結果、強く豊かな国アメリカと弱い貧しい中米という図式はさらに固定化し、中米諸国の経済はアメリカに完全に頼りきりという構造が固定してしまっている。
 エルサルバドルで「この国は、消費社会だよ」という発言を聞いた。こんな発展途上国で消費社会?意味がわからず聞き返すと、お金はアメリカで働く家族から送られてきて、ここでは物を買うだけ。生活をするだけ。もちろん、ここにいる人も懸命に働いてはいるが、失業率は高く、また、仕事があっても低賃金労働であるというのが現実・・・。
 今、ベネズエラのチャベス政権に始まり、多くの中南米諸国が反米政権となっていることに注目が集まっているが、アメリカや新自由主義に反発する中南米全体の流れは、突発的に生まれたものではない。背景には、これまでの長い弾圧・搾取の歴史・貧困から抜け出す戦いがある(参考:「反米大陸」伊藤千尋 集英社新書)。

■アメリカに住む移民はどこから・・・?
 アメリカにはラテンアメリカ人が多く住み、NYでもスペイン語をいつも耳にする。不法移民の問題も常に政治を賑わせている。
 バスでグアテマラからエルサルバドルの国境越えをともにしたエルサルバドル人のネルソンは、数年前まで、不法移民としてアメリカで働いていた。メキシコ人の女性と結婚して息子が出来たが、その後、妻と離婚、さらにその後、家族全員が国に強制送還され、元妻と息子はメキシコへ、本人はエルサルバドルへ。ネルソンは、現在、13歳の息子に会うために、年に3、4回、エルサルバドルからメキシコまで、片道6日のバスの旅を繰り返している。飛行機は高くて乗れない。メキシコのビザも取れないから、メキシコへも不法入国となる。「どうやって国境を超えるの?」という私の質問に、「こんな山の中を、ただ行くんだよ。」とネルソンは草木が生い茂る山を指差した。
 中米からアメリカに不法入国する人たちは、メキシコという巨大な国を通り抜けることになる。常に捕まる恐怖を抱きつつ、山を越えたり、バスの屋根の上に乗って隠れて移動したりしながら、メキシコを通り抜けてアメリカ領土に到達すると、まずは大成功。途中でつかまって強制送還されれば、またゼロからやり直し、だそうだ。もっとも、彼はアメリカにはもう戻りたくないとのこと。「ここ(エルサルバドル)ではアメリカの生活にはあこがれるし、お金は必要だけれど、みんな、(国としての)アメリカは好きじゃない。」

■軍隊を持たない国コスタリカ 
 コスタリカには、軍隊がない。内戦の後、戦争の原因となる存在である軍隊を1949年に廃止した。現在まで軍隊を持たず、一度も戦争をしていない。周辺諸国は内戦続きである中、「兵士の数だけ教師を」「銃を捨てて本を持とう」などを合い言葉に、軍事費を教育や医療に回して国を発展させた。学費・医療費無料など社会保障制度が整っている。中産階級が多く貧富の差が少ないため、犯罪も少なく、治安や経済が安定している。それゆえ、海外からの企業進出も進み、さらに社会が豊かになっていく。他の中米諸国からすると、嘘のように豊かな国である。
 軍隊を廃止した故ホセ・フィゲーレス元大統領の妻カレンさんによると、「この国は、軍隊がいらないという考え方を皆が共有している国」とのこと(参照「平和に生きる・コスタリカ」コスタリカの人々と手を携えて平和をめざす会編)。私も、街で、「軍隊は必要ないのか」と質問を繰り返したが、見事に、みなが「もちろん軍隊なんかいらない」と答えた。「他の国から攻撃されたらどうするの?」という問いには、「コスタリカを攻撃する国なんてないよ」「コスタリカには世界中に多くの友達がいて、守ってくれるよ」という答え。「アメリカが守ってくれるから大丈夫」という答えもあった。
 「軍隊が必要」と答えた人は実に一人もいなかった。「何かの役に立つの?」「そのお金があったら、もっと教育や医療にお金をかけたらいいのでは?」「軍隊にいくらお金がかかるか知ってるの?」
 紛争だらけの中米で軍隊を持たないでいるのは至難の業である。最善の外交努力を続けねばならない。隣国の紛争を自国に飛び火させないため、隣国の紛争をも平和に収めるために東奔西走する。アメリカがニカラグアに介入していたとき、アメリカはニカラグアの隣国コスタリカに基地を置かせてくれと迫った。しかし、コスタリカは、1983年、永世中立宣言をして基地設置を断った。その代わり、中米各国の紛争を解決するために奔走し、結果紛争は終結、1987年、アリアス大統領(06年から再任)はノーベル平和賞も取得している。
まさに平和外交を地で行く国である。日本にもこれが出来ないものか。国際反核法律家協会の副理事であるコスタリカの弁護士バルガス氏から、日本も非武装中立宣言を、というアドバイスをもらう。
 これだけみんなに続けて「なんで軍隊なんかいるの?」と真顔で言われ続けると、「日本の非武装中立宣言」を目標に掲げるのも面白いかな、という気持ちにすらなる。日本を離れて1年もすると、こんな非現実的な、日本では口に出来ないことを考えるようになるのかも(笑)。しかし、コスタリカの、平和外交に取り組んでいるその命がけさは、軍隊がないことからも生まれてくるのだとも思う。平和の維持のためには、単に軍隊をなくすだけでいいわけはなく(現在の日本の政治状況から、これをひよって言い換えると「9条を維持するだけでいいわけはなく」)、大変な努力が必要になるのであって、逆に、その努力の可能性を追求することもなしに「9条改憲」を叫んでいるのは、日本が、あり得る一つの選択肢をきちんと見ようともしていない、ということなのだろうと思う。
 なお、1989年に、隣国パナマも軍隊を廃止している。パナマでは滞在時間が少なく、多くの人に話を聞くことはできなかったが、質問した一人の若者は、軍隊は要らない、金の無駄、と言い切った。
 コスタリカという、軍隊を持たないことを国民全体の価値観としている国が世界に存在しているという事実と、それを追って軍隊を廃止する国が続いているというのは、本当に心温まる事実である(現在、軍隊がない国は世界に27カ国。「軍隊のない国家」 前田朗著 日本評論社)。

■一人一人の顔が見えると
 私の趣味は旅。10代から旅を続けてきて、過去の訪問国は40カ国以上になった。面白いのは、バックパック旅行をしていて出会う多くの人がリベラルである、ということである。今回の旅行でも、例えば、多くのアメリカ人と道中を共にし、政治の話などに花を咲かせたが、ひとりも共和党支持者はいなかった。それは、アジアやアフリカを旅していても同じである。国際的になることだけが良いことだとは思わないが、他の国に、しかも、他の国で普通に暮らす人々の生活に目を向けているという点が共通するだけで、共通する一つの価値観があるのだろうと思う。自分が訪問し、友達ができた国を敵に回す気にはならないし、ましてや武力攻撃する気には絶対にならない。
(2008年 「まなぶ」 10月号掲載) 

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*「グアテマラの一大バナナ出荷港プエルトバリオスにて。デルモンテ、ドールといったよく知る名前のコンテナが並ぶ・・・。」

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*「「すべての兵舎を博物館に」を合い言葉に、現在は国立博物館になっている元陸軍司令部。壁には内戦の弾痕が残る。」

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ロースクールと法律家と

ロースクールと法律家と

 コロンビア大学ロースクール(CLS)を2008年5月に卒業した。今回は、米国におけるロースクールについての雑感、そして法律家(Lawyer)の存在についての雑感を書いてみたい。それは、Lawyerだらけの国といわれる米国社会の特徴的な一面でもあると思う。

■米国におけるロースクール
 米国では、4年間の大学(学部)の後に、一度社会で働き、その後、プロフェッショナルスクールと呼ばれるビジネススクールやロースクールで学ぶ者が少なくない。日本の大学院の「難しい研究に年月をかける」というイメージよりは、語弊を恐れずにいえば、こちらのプロフェッショナルスクールは同じ修士号取得であってもその分野で活躍するために必要となる、より一般化されている学びの場である。
 米国で弁護士になるのは日本に比べて簡単である、と耳にしたことがあるかもしれない。NY州で弁護士になるには、主として、3年間ロースクールに通ってJuris Doctor(JD)という学位を取得し司法試験を受ける方法と、海外で既に法学教育を受けた者が1年間米国のロースクールで学び、LLMという学位を取得して司法試験を受ける方法がある。NY州司法試験の合格率は7割程度であり、ハーバード、コロンビアのような上位校の合格率は95%以上と聞く(外国人合格率は40%を切るが)。
 日本では、戦後以来続いてきた司法試験が、難しすぎる(合格率2~3%前後)、知識ばかりをマニュアル的に覚え社会に役立つ法律家が育たない等といった理由で廃止に向かっており、2004年4月には米国式のロースクールが導入された。なお、新制度が導入されて2年目の2007年新司法試験では、合格率は40%であった。

■ロースクールでの勉強
 こちらのロースクールの授業は実に多様である。憲法・契約法・不法行為法・刑法といった必修科目の他に、2,3年では選択科目を受講し、ビジネス、ファイナンス、刑事法、家族法、そして、私のような国際人権など、それぞれが、自分が将来進みたい分野を中心に授業を選択する。
 日本のロースクールでは、司法試験の合格率が高くないこともあって、司法試験科目以外の授業を選択する学生が極端に少ないと聞く。また、授業で、教授が司法試験と関係のない内容を教えて、「そんなことは試験に出ないから、授業でやらないで」と学生にいわれて授業内容を変えざるを得なかったとか、そして、学生の生活も朝から晩まで司法試験科目の勉強ばかりである、とかそういう話を耳にする。
 しかし、こちらのロースクールで、様々な分野の豊かな内容の授業を受け、存分に議論を楽しんだ後では、せっかくの機会を日本のロースクール生は逃している気もしてならない(もっとも、日本の「弁護士」と、こちらの「Lawyer(法律家)」の位置づけはかなり違うものであると思うので、単に合格率をどうこうすればいいという問題ではないと思うが。)。
 もっとも、こちらの学生も、ものすごく勉強をする。特に、1年生の成績は就職に大いに関わるため、1年生は死にものぐるいである。「期末試験で気が狂いそうになり、極厚の教科書をピストルで射貫いた」という歌すらあるらしい・・・。ここで踏ん張って、「勝者」になれば、弁護士一年目にして年収1500万円~2000万円が待っている、というわけである。

■豊富な授業選択
 CLSでは、年間、実に350(!)近い授業の中から、受講したいコースを選択することができる。豊富さの一例を挙げてみよう。
 私は人権を専攻しているが、タイトルに「Human Rights」という語を含むゼミ・授業を検索したら、10個みつかった。国際人権、グローバリゼーションと人権、人権と文化における問題(Human Rights & the question of Culture)、国内法・国際法における人権侵害への賠償(Human Rights reparations under domestic & international law)、人権と法と開発、国際人権の提言活動(International Human Rights Advocacy)、生殖に関する健康と人権(Reproductive health & Human Rights)、国際ビジネスと人権、ヨーロッパ人権条約、ヒューマン・ライツ・クリニック、である。日本では、人権とタイトルする授業が3つもあれば御の字であろう。
 もちろん、タイトルにHuman Rightsとつかないが人権に関係する、という科目はさらにたくさんあり、ごく一部だけ取り上げてみても、表現の自由(Ideas of the First Amendment)、移民法、他文化・社会と法(Multiculturalism, Society & The Law)、新しい形の公益的提言活動(New Forms Of Public Interest Advocacy)、医療へのアクセス(Access To Healthcare)、メンタルヘルス法(Mental Health Law)などと、あげればきりがない。

■人権クリニック
 多くのロースクールには「リーガル・クリニック」があり、そこでは、実務家のアドバイスを受けながら、学生が実務を体験することができる。
 私は、1年間、ヒューマンライツクリニック(HRC)に参加し、その中でFOIA(Freedom of Information Act・情報自由法)のプロジェクトに関わった。
 FOIAとは、日本でいう情報開示請求についての法であり、米国の人権弁護士の最強の武器である。この情報公開請求は、CIAやFBIといった高度な秘密組織を含む米政府の中にある、通常では全く国民の目に触れないような膨大な資料の開示を可能にする。グワンタナモの拷問や、イラク・アフガン戦争における政府や民間企業の責任など、多くの衝撃的事実が、この情報開示を通じて人権NGOの弁護士の手により世界中に明らかにされてきた。
 私が関わった情報公開請求は2件。グワンタナモ等の収容者の国外追放の際に、拷問などが送り先の国で行われないようにという外交保証(Diplomatic assurances)の件と、コンゴの内紛についての米政府の関与を開示させる件であった。資料の多くが非開示との回答であったり、また、墨塗りで開示されたりし、行政段階での再審査請求をしたあと、訴訟を提訴する。1年では訴訟までは進めなかったが、実際に関われる物事の大きさには常にわくわくが止まらなかった。
 HRCでは、他にも、インドのサッカーボール工場での児童労働問題、米州人権委員会に係っている米国内のドメスティックバイオレンスの事件、NY市内のレバノン移民の問題などなど。学生が、インドだ、コンゴだ、赤道ギニアだ、と調査にも出かけ、その報告を受けるのも大変楽しかった。コンゴ調査の報告では、コンゴの外務大臣にあって直接交渉をした、という話もあり、できることの大きさを実感したこともある。
 クリニックは、これからその分野で働きたいという学生には、現場を見ることのできる大変良い機会であると思う。CLSには、HRC以外にも、子どもについての提言クリニック(Child Advocacy Clinic)、環境法クリニック、デジタル時代における法律家クリニック、調停クリニック、NPO(非営利団体)・スモールビジネスクリニック、性とジェンダーのクリニックがあった。
 日本のロースクールでもクリニックを設置し、学生に実務体験をさせているところは少なくないが、これだけ充実しているところは、あまりないのではないか。

■卒業後の進路、そして公益的活動に対する姿勢
 卒業後は、多くがビジネスロイヤーとして、大手法律事務所に就職する。また、企業に就職したり、政府に入ったり、裁判所の裁判官のクラーク(日本にはない制度。裁判所書記官(?)のようではあるが、判決を起案したりする)になる人も一定数いる。人権NGOで働きたいという希望も、給料がビジネスロイヤーの2~5分の1になるにもかかわらず、根強い。しかし、人権NGOでの就職は、NGO数が少なく(ほとんどない日本に比べれば、比ではないが。)競争率が激しく、何年待ちとなることも多い。学費が高いため(年間学費だけで450万、他に生活費。これが3年間)、公益的活動を望む学生の多くは、一度、大手事務所に進むことが多い。それでも、公益活動を行いたい、人権問題に取り組みたいという学生は、粘り強く道を模索している。

 米国のロースクールが日本の司法研修所と違う(と私自身が一番感じた)のは、人権問題に取り組みたい!ということを堂々と口にして生きていけるコミュニティであるということである。私は、日本の司法修習所にいたとき、「人権問題に取り組みたい」と真っ正面からどれだけ語ってこれただろうか。私は、そのことで、偏った考え方の持ち主であるとレッテルを貼られるのではないか、嫌われるのではないか、ということを常に気にしていたように思う。気にしすぎかもしれない私の周りには、大手のビジネス系事務所に就職することが一番であるというような、何となくの雰囲気が常に漂っていたような気がする。

 ここでは、公益活動・人権活動を行うサークルは3年間、常に活発である。私の心に一番残っている米国人学生の友人の言葉は、「収入も少ないのに、社会的に有意義な公益的仕事についている弁護士を、みんなが尊敬しているよ。仮に自分がならないとしても。」というものである。(2008年 「まなぶ」 9月号掲載)

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*「歯学部が巨大歯ブラシを持って卒業式に望む。ロースクールは裁判官のハンマー。
医学部は聴診器。ビジネススクールはお金・・・」

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アメリカ合衆国大統領選挙・当日!

アメリカ合衆国大統領選挙・当日!

2008年11月4日。ついに大統領選挙当日。こんな歴史的な選挙、体験し尽くせるだけ体験しないと一生後悔する!!と、急遽、投票所の監視ボランティア(オバマ陣営からの派遣)に参加することとする。目指すは、もちろんスイングステート(激戦区)。私は3日前にオバマ・キャンペーンを体験した同じペンシルバニア州の、今回は州都のフィラデルフィア市に行くことにした。

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*「フィラデルフィア市内で。道路脇のOBAMAの看板。選挙戦の最後には資金面で圧倒的にオバマが上回り、マケインの看板よりオバマの看板が圧倒的に多かった。」

しっかし、「選挙監視」って言ったって、発展途上国じゃないんだから選挙妨害なんてあるはずもないし、一日中ただ投票所で暇なだけかも、と思いながらだったが、・・・いやはや、投票所には検察官までやってきる騒ぎになり、なんとも面白いものを見ることができた。民主主義の母国アメリカ恐るべし。

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*「今回の選挙は大統領以外にも、上院議員(国会議員)、司法長官、会計監査役など計7職種を選ぶ(フィラデルフィアでは)。ボランティア仲間に聞いてみたが、大統領と上院議員ぐらいしか候補者を知らず、それ以外は政党で選ぶしかないとのこと。

■始まってすぐに混乱・・・
ペンシルバニア州の投票時間は午前7時から午後8時(州によって様々)。ちょっと遅刻して7時過ぎに着いた会場は、市内の公立グローバー・ワシントン・ジュニア中学校。校舎の入り口ロビーが投票所であったが、着いた時には、既に会場は混乱に陥っていた。
投票所には出勤前に投票したい人が30人くらいの列。二台ある投票機械のうち1台が壊れて動かない(投票はタッチパネル式の機械(銀行のATMのようなもの)で行う)。動いている機械についても、使い方の分からない人が会場のスタッフに使い方を聞くが、慣れないスタッフもよく分からない・・・。列はなかなか短くならず、仕事に遅れそうな人がスタッフに文句を言い、しまいには、投票をあきらめて会場を後にせざるを得ない・・・等々。結局人々は1時間弱待たされたのではないだろうか。
選挙裁判官(electoral judge)と呼ばれる現場の最高判断権者の女性が右へ左へ走り回り、機械を直す人を呼んだり、対応を図りかねて本部に電話したり。そして機械を直す技術者や選挙本部の人がわらわらと会場に押しかけたり。日本の整然とした投票所しか知らない私は、着いたとたんにあっけにとられた。混乱が落ち着き、人がスムーズに流れ出したのは午前9時頃だったろうか。

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*投票所であった中学校

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*タッチパネル式の機械で投票する人々


■投票
 さて、投票。今回の選挙は大統領だけを選ぶのではない。会場の前には、選挙ルールの説明と共に、それぞれの選挙の候補者の一覧が掲示してあった(英語とスペイン語で)。上院議員(国会議員)他、Attorney General(司法長官)や、Auditor General(会計監査)など計7職種を選ばなければならない。ボランティア仲間に聞いてみたが、大統領と上院議員ぐらいしか候補者を知らず、それ以外は政党で選ぶしかないとのこと。この壁の表は、タッチパネルの投票機械で投票者がまさに投票するときの画面と同じ表である。それぞれ縦列で政党ごとに候補者が分かれており、民主党だけを支持したい人は、一括して縦の列を選択することで全て民主党の候補者だけに投票できる仕組みになっている。

■監視ボランティア
会場には、オバマ陣営からの監視ボランティア(以下「オバマ陣営監視団」とします。)が、私を入れて計6人(一日長いので入れ替わりも含め)。マケイン側からはゼロ。
ボランティアといっても間違ったことが起こらないようそこに存在していることが一番重要。会場の中には基本的には入れず、入り口で投票を終えた人に「何か問題はありませんでしたか?」と聞いて、問題があれば対応する。また、問題があったと話す人には事件報告書(Incident Report)を書いてもらう。「自分の名前がリストになく、投票ができなかった」「仮投票は手書きで受付のテーブルでやらされ、プライバシーが全くなかった」「スタッフが3人しかいなくて投票所が回っていなかった」などなど。
なお、ボランティアにはここ数十年も参加しているという人もおり、ある程度のプロ意識が見られるところもあった。その日の夕方、「私も監視ボランティアをしたくて来ました」という人が遅れてNYからやってきたが、「ちゃんとボランティア本部に登録し、マニュアルを読んでトレーニングを受けていますか?そうでなければ、お引き取りください」と、その彼は答えて、NYから2時間以上かけて来た彼女を追い返した。
ボランティア・トレーニングは選対本部で受けるか、ネット上でも受講可能。マニュアルは登録するとインターネット上で見られるようになる。国民は選挙に際しどんな権利があるのか、投票の制限がなされるのはいかなる場合か、問題が生じた場合にはどう対応するのか・・・50ページにもわたる厚いマニュアルであった。
なお、ペンシルバニア自体は激戦区ではあるものの、私が監視ボランティアをしたエリアは黒人エリアで、もっぱらオバマが強いエリアであったようだ。オバマ陣営監視団の一人が、さっそくOBAMAの旗を投票所の入り口の真ん前に立て、「民主党のこの人たちに投票を!(大統領及びその他の役職)」とのチラシを選挙に来た人たちに入り口で渡し始めたが、一日中、誰に文句をいわれることもなかった。

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*オバマ陣営監視団の仲間。にこにこと、さっそくオバマの旗を立てる。
奥のドアが、投票所への入り口。

■ボランティアだけに支えられる投票所・選挙裁判官

監視だけでなく、選挙の運営自体がボランティアだけによるものであった。「まさに普通の市民が手伝ってます」という素人くさい雰囲気が漂う会場で、受付に3人程と一人のスペイン語通訳、そして本日の主役(?)の選挙裁判官が一人。
選挙裁判官(electoral judge)とは、各投票所に一人以上置かれ、何か問題が起きた際に、その投票所の最終決定権者として判断を行う者。ジャッジと呼ばれていても法曹資格を持つ者ではなく、半分ボランティアのような市民の協力によりなりたっているポジションであり、各投票所に民主党・共和党のいずれかから送り込まれる(!)。政争が激しく問題が多く生じそうな投票所には、民主・共和両陣営から各一名ずつ選挙裁判官が送り込まれ、それぞれが話し合って結論を決めるという。
私の行った投票所は黒人地域で民主党が強い地域だったからか、選挙裁判官は共和党からの人で、40代後半の女性であった。本職はバーテンダーとのこと。まさに見た目もバーテンダー、一息つきながらタバコを斜めにくわえている姿も大変さまになるかっこいい女性であった。上記した早朝におきた問題以外にも、リストに名前がない人、どこで投票したらいいか分からない人などはたくさんおり、その都度、選挙裁判官がこの投票所で選挙することを認めるか否か判断するので、選挙裁判官は結構忙しい。私のいた投票所の選挙裁判官は何回か経験があるとのことで手慣れており、後述の問題が起きるまでは、オバマ陣営監視団も彼女なら安心できると言っていたほどであった。なお、選挙裁判官には一日100ドル(約1万円)、他のボランティアには95ドル(9500円)が支給されるとのこと(作業時間としては午前6時前から午後10時頃までか)。選挙裁判官役は、年に計3ヶ月だけこういった選挙関係の仕事をやるパートタイムの職だということであった。

しかしそれにしても、政党の公的役割は日本でも小さくはないが、あくまでも私的存在であるはずの政党が、ここまで公的機関同様の役割を果たしている状況は、私には、まったく理解困難であった。選挙裁判官を送れない民主・共和以外の政党はどうなるのだろうとも思うし、そもそも、そんな資格も知識もない人が、選挙という統治の最重要場面、そして、選挙権の行使という国民の権利行使の最重要場面で、強力な決定権を握っているということに、全く理解がついていかない。
私がそれを話すと、みな「公務員の数が少なくてね、政府は財政も苦しいしね」との回答。「ここにいる人はみんなボランティアなんですか?」と選挙裁判官に聞くと「そうそう。あそこにいるのは、私の母親!」と、彼女は80も近いだろう老婦人(3人のスタッフの一人)を指さした。

途中、その選挙裁判官が自分の選挙に行ってくると言っていなくなり、その間、オバマ陣営監視団の経験豊かなボランティアが、突然、選挙裁判官役を任されていた。選挙裁判官は、2時間くらい戻ってこず、その間ずっと、私たちの監視仲間が選挙裁判官の役をやっていたのである。

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*ボランティアによる受付。立ちながら机に肘をついている女性が選挙裁判官。その右隣が、選挙裁判官の母親。

■投票を認めない?
夕刻、投票に来る人がごくまばらとなったため、私は少し仮眠を取った。そして仮眠から戻ったところ、オバマ陣営監視団と選挙裁判官がもめている!
「何事?!」と聞くと、「投票できるはずの人が、投票させてもらえていないことが分かった」とのこと。本来のルールとしては、ある投票所で自己の名前が見つからなかった者も、他の場所で投票できれば良いが、他の場所で投票できる見込みもなく、現住所地などからその投票所で名前が見つかってしかるべき場合には、その場所で「仮投票」が許されねばならないということになっている。しかし、この投票所の選挙裁判官は異なった理解をしており、もっぱらそういったケースに仮投票を許していなかった(なお、仮投票(provisional vote)とは、正式の投票ではなく、接戦になったときに初めて票の有効無効の判断が行われ、有効であると判断された際に初めて数えられる票である。)。
そこで、オバマ陣営監視団が物申し、投票を断られた人たちの仮投票を認めるように求めたのである。しかし、選挙裁判官も譲らない。振り返れば、昼以降、10人弱の人々が投票できずに「他に当てもないけれど、他を当たってみる」とその場を去らざるを得なかった。例えば、昼過ぎには、18才で初投票に勇んでやってきた若者が、その場で自分の名前が見つからずに追い返されており、オバマ陣営監視団は彼に「事件報告」を書いてもらい、「他に投票するところが見つからなかったら戻ってくるんだよ」と告げると、彼は頷いて投票所を後にしていた。
オバマ陣営監視団から選挙裁判官に物申してから、それまでは全体的に協力的だった投票所の空気が対立でピリピリし始めた。繰り返しになるが、選挙裁判官は共和党からの派遣である(投票率が低いと共和党有利、投票率が高いと民主党有利という歴史的背景がある)。
オバマ陣営監視団の電話で、地区の民主党本部から「それは選挙裁判官の理解が違う!」と偉い人がやってきて、選挙裁判官に根拠を示して投票を許すよう求めた。しばらくの議論の後、選挙裁判官は折れ、その後同じ事例があったら仮投票を認めることを約束した。
ふう、と私たちが胸をなで下ろしていたとき、さらに、その場に物々しい雰囲気で検察官までやってきた。3人してやってきたその一行はその場の全体状況を確認し、選挙裁判官に、二度と間違いをしないように、と規則の確認をし、注意をして去っていった。
投票所に検察官まで来るなんて!恐ろしや、アメリカの選挙。

選挙終了の午後8時直前、先ほど、自分の名前が見つからずに投票ができなかった18才の若者が、叔父に連れられて再びやってきた。裁判官も今度は彼に仮投票を許す。仮投票ではあったけれど、良かったね!と私たちが話しかけると、はにかみながら笑顔を見せた。

終了時刻。終了時刻に投票所に並んでいる人には投票を認めなければならないことになっているが、終了時刻以降は一切させない、という投票妨害もあるようで、マニュアルでも注意を喚起されていたが、私たちの投票所は、最後の投票者はその18才の彼であり、午後8時には静かに会場は幕を閉じた。


■投票率・事前登録制度
私たちの投票所では、選挙登録人が540人のところ、375人が投票し、他、仮投票が10票だった。それからすると71%の投票率で、会場の皆は「良い投票率だ!」と喜んでいたが、しかし、そもそも登録していない人がたくさんいるだろうから、一概にその数字を喜んで良いのだろうか、とこれまたすっきりしない。

そもそも、アメリカの選挙と日本と決定的に違うのが、投票するために「事前登録」しなければならないということ。したがって、自分の支持者が事前登録をしてくれなければ困るため、オバマ・マケインそれぞれの陣営は、登録促進のキャンペーンも展開する。NYでは選挙一ヶ月前に登録を締め切っていたが、登録最終日には、私のコロンビア大学の校門前でも、オバマ陣営がテーブルを出し「登録はしましたか?」と登録用紙を配布して、登録を皆に勧めていた。各選挙陣営が、一般選挙の登録用紙を配布して登録を求めている、ということ自体、私には驚くべき事実である。
さらに驚くべきは、その事前登録において、人々が自分の支持政党まで登録することである(もちろん登録しなくてもいいが)。早めに登録をし「民主党(あるいは共和党)」と登録すれば、1月から6月の予備選挙((ヒラリー・クリントンかオバマかを選んだ選挙。)でも各党の党員として投票ができる。しかし、大統領選という国政選挙一般についての登録と政党内の選挙の登録が同じ一枚の紙でできてしまうというこのシステムは、私の理解能力を超えている。

いずれにせよ、この登録制度の一番の問題は、自分の名前が投票所まで行ったのにみつからない、ということことが恐ろしく頻繁に起きるということである。私のいた投票所でも10人以上が名前を見つけられず、選挙裁判官に「前の選挙から引っ越してもいないし登録もちゃんとしたのに、なんで今回は僕の名前が無いんだ!」と怒っている人もみた。私の大学の友人でも「ちゃんと登録したのに、まだ登録確認の葉書が届かない。まあNYはオバマが勝つからいいけどさ・・・」と、選挙1週間前に言っていた人がいた。
日本的感覚からすると、とにかくはちゃめちゃ。2000年のブッシュとゴアの選挙のようなことが起きるのも何の不思議もない。
私の卒業したロースクールにも“中立な選挙を実現するための学生サークル”があって、常に活動を行っており、当時、私は「なんでそんなサークルが必要なんだろう・・・?」と思っていたが、ようやく意味が分かった。
なお、今回の選挙は、一般的には投票率が63.8%という数字になっているようであるが、そもそも、分母を何とするか、正確な投票率の計算にはアメリカの中にも争いがあるらしく、日本とどのように比較して良いのか不明である(調べても、いまいちすっきりとは分からなかった)。

■平日の選挙
ちなみに、大統領選挙は常に火曜日で、祝日ではない。職場が休みになっているところもあるが、私の職場のようになっていないところも多い。私の働くNGOでは、「2時間抜けて投票に行くことを認める」というメールがスタッフに回ったが、職場の友人は、投票所で待たされ2時間では戻れないかもしれないから、仕事を早く切り上げて行くことにすると言っていた。「投票所で待たされる」ということがこの国ではよくあることのようである。なお、ニュージャージー州ニューアーク市の公務員の友人は、投票日は組合で交渉して休みにしたと話していた。

■OBAMA!OBAMA!
さて、開票速報のラジオを聞きながら2時間のドライブでNYへ戻る。私の電話にも、ハンドルを握る私の友人の電話にも、あちこちから「オハイオでオバマが優勢!」「バージニアでオバマが勝った!」と情報が寄せられる。3日前に一緒にオバマ・ボランティアをした仲間に電話すると、興奮しながら電話に出て、一人は今日はニュージャージー州のキャンペーン本部で、電話かけを行っていたとのこと(当日に!)。
徐々に激戦区がオバマで固められ、興奮の中、NYのお隣ニュージャージーに着き、地下鉄に乗り換えてマンハッタンに向かうと、その地下鉄の車内放送で、車掌の声が「私たちの大統領はオバマ!!!」と、響き渡った!!!!OBAMA当選決定!
地下鉄の中でも駅構内でもみな興奮して「OBAMA!OBAMA!」と叫びあう!そして、マンハッタン中心の広場という広場に人々が、続々と詰めかけ、もう12時を回ろうとしているのに街はお祭り騒ぎ。中心部の広場の一つユニオン・スクエアでは、何千という若者が集まり「YES, WE CAN!(私たちにはできる!)」「YES, WE DID!(私たちはやったぜ!)」の大合唱。NYの顔でもある一番の繁華街タイムズスクエアでは、数ある電光スクリーンが一斉に選挙の様子を映し出す。シカゴでのオバマの勝利演説や、未だ続けられている開票速報が、多くのスクリーンで映し出される中、みんなが「OBAMA!OBAMA!」と叫び、旗を振り、オバマのスクリーンと写真をとり、通りすがる車は皆クラクションをならして街の声援に呼応して興奮に加わっていた。
そのマンハッタンの街全体の興奮は、誰かが事前に計画してというのではなく、単に興奮していてもたってもいられない個々人が広場を目指して家を飛び出し、街にあふれ出、とにかく興奮で叫び続けるといった様子であり、まさに圧巻であった。興奮して街灯に登る者もあり、知らぬ者と肩を組んで歌う者有り・・・街が喜びであふれていた。
そこにいる皆は何をするでもなく、うれしくてたまらない、興奮を分かち合いたい、と、集まり、ただただ喜びを分かち合っていた。警察も出ていたが、多少の交通妨害であれば規制することもなく、見守っているようであった。
街のあちこちでパーティも開催されており、私も友達の開催した3ヶ所くらいから誘われたけれど、街の興奮を感じている間にあっという間に午前2時半過ぎでパーティには行けずじまいであった。


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*オバマ当選決定直後、NY一番の繁華街タイムズ・スクエアで。

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*NY一の繁華街タイムズスクエアで。皆が集まり、叫び、興奮し、勝利に
酔いしれていた。strong>

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*「New York for OBAMA!!!」初めてあった人でも、肩を組み、一緒に踊り、写真を撮る!


■最後に ~これから
一年半に渡って色々なアメリカを見ることのできた大統領選挙であった。民主主義の母国アメリカの投票制度の決定的な問題点も、全国から続々ボランティアが集まる熱いアメリカも。
さてこれから。
NYに住むある友人(日本人)の話では、彼のルームメイトの黒人が、オバマ当選が決まった瞬間に感極まって泣き出した、とのこと。奴隷として扱われ、その後も差別に苦しんできた歴史がこれで終わる、と。NYの黒人街であるハーレムでは、興奮のあまり発砲する人もいたとのことで、街が混乱に陥り、友人は眉をひそめていた。
このオバマの当選が、歴史上の大きな第一歩であることは間違いなかろう。しかし、
一つの歴史を作り出したアメリカ人たちは、これからどうするか、という重大な任務を負っている。オバマファンが100人いれば100人が勝手な期待をオバマに抱き、自分の期待をオバマがあたかも実現してくれるかのように夢見ている嫌いもある。また、オバマの政策は完全でも何でもない。このアメリカの新しい展開を再び新しい気持ちで、体験し続けていきたい。

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*オバマ当選翌日のシカゴトリビューン紙一面。シカゴトリビューンは、保守的傾向があるとされており、創立後の161年間で今回初めて、民主党の大統領候補者を支持していた。オバマはシカゴ出身。

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アメリカ大統領選挙・投票日前夜

あと2日後に迫るアメリカ大統領選挙の様子を、アメリカ現地から、私の体験している極めてごく一部の範囲ではありますが、興奮を伝えるべくお送りしますー。

■■■ 弁護士 猿田佐世のNYだより <号外> 
              アメリカ大統領選挙・投票日前夜 ■■■
(写真および「NYだより」本編はこちら↓
          http://www.news-pj.net/npj/saruta-newyork/index.html )

投票日まであと3日という選挙前最後の土曜日、スウィング・ステート(どちらが勝つかわからない州)の一つであるペンシルバニア州に行き、オバマ・キャンペーンを覗いた。

■NYの選挙前夜
わざわざ2時間かけて隣の州まで行ったのは、「オバマの手伝いがしたくて」というよりも、「大統領選挙を体感したくて」というのが正しい。というのも、私の住むニューヨーク州は、圧倒的なBLUE STATE(民主党が強い州)であり、オバマが勝つことは明らかなため、選挙戦も激化していないし、街が選挙一色ということもない。服にオバマのバッジをつけていたり、家や店の窓に「OBAMA」の看板を掲げている建物はしょっちゅう目にするようになったけれど、普通に生活をしている分には何も変化なく、投票を呼びかけられたりポストにチラシが入っていたり、ということすら今まで一度もない。それどころか、私は、NYでマケイン支持のアメリカ人に一人たりとも出会ったことがない。もちろん、私の周りがみなリベラルであったり、オバマは若者から支持を受けていたりということもその理由としてあるだろう。が、そもそも、NYはリベラルな街であるから、マケイン支持者は自分がマケインを支持していると明らかにすることすらできずにいる、という状況である。

■オバマ・キャンペーンへ
ということで、選挙を体感するに一番手っ取り早いのはスイング・ステートに行くことである、選挙の様子が分かるのであれば何でも面白そうだ、と、5時に早起き。NY の隣の州New Jerseyのニューアーク市で他の参加者と合流し、そこから車に分乗。1時間半後、ペンシルバニア州ALLENTOWN市のオバマ・キャンペーンのボランティアセンターに到着した。(ALLENTOWN市はペンシルバニア州の東端に位置する人口10万5000人(ペンシルバニア州では3番目の大きさ)の街である。)

ボランティアセンターには、自分も何かやりたい!という人がスウィング・ステート目指して続々と全米から集合。ボランティア登録をするにも長蛇の列。州外から来た人のほうが圧倒的に多く、どこから来たの?という会話が飛び交い、みな、歴史的瞬間を支えているんだ、という興奮で会場は熱気に包まれていた。子どもから大人から、黒人白人ラテンアメリカ人などなど、まさに草の根の雰囲気の漂う会場。オバマは、公的資金を受けず、選挙資金を全て市民の寄付でまかなう方針でやってきている(逆に、マケインは公的資金を受けているので、寄付を集めることはできない)。実際、多くの市民から寄付が集まり、オバマ陣営は歴史上の最高額を集めている。日々オバマ陣営から送られてくるメールでは(私は、かつて生オバマを見に選挙演説を聴きに行ったことがあるので(→http://www.news-pj.net/npj/saruta-newyork/index.html)日々オバマ陣営からメールが送られてくる)、「5ドル(約500円)から!」と募金が呼びかけられている。選挙運動も、草の根意識を大切にしているが、ボランティアセンターでは、これがその現場なのだなあ、と実感。

陣営の雰囲気としては、オバマが今までの共和党支持州をも塗り替えたりしつつある現状で、全米での優勢が伝えられているが、それでも、2000年のブッシュ・ゴア選挙を思えばそんな事前の予想は信じられないし、全く当日まで安心はできない、というところである。みんな、興奮に包まれながら、心配している、という感じだろうか。

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*1.オバマ・ボランティアセンターの建物


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2.ボランティア・センター内部の様子

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3.ボランティア登録をする


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4.弁護士から説明を聞く。その後、かけ声をかけて気合いを入れて出発

■戸別訪問
会場でボランティア登録をすませ、一日の仕事の説明を受ける。私の仕事は、戸別訪問。4人チームで100軒くらいの家を周り、オバマサポーターが確実に投票に行けるように選挙の場所や時間、方法について説明する。回る家のリストや話す内容についての説明書、各戸に渡すリーフレットをもらってから、30人くらいでまとまって弁護士から注意事項の説明を受ける。説明の最後に、「Fired up! Ready to go!(気合いが入ってきた!さあ行くぞ!・・・オバマのおきまり文句)」と皆で気勢を上げてから市内に散らばった。なお、説明をしてくれた弁護士は、一ヶ月前に自分の事務所を閉め、その後ずっとここでボランティアをしているとのことであった。

私は、ニューアークから同じ車に乗ってきた女性たちと4人でチームを組んだ。さっそく指定された地域に行き、戸別訪問を開始。具体的には、二人ずつに分かれて、リストに載っている各家を回り、ドアをノックする。人が出てくれば、私たちはオバマのサポーターであることを説明し、相手が誰を支持しているかを聞く。迷っているようならオバマを推す。そして、当日の投票場や時間、持ち物(住所の記載のある身分証明書)が分かっているかを確認し、もしオバマのためのボランティアをしたいようなら、その旨をこちらでメモしておいて、あとで他の人からその家に連絡を入れる、という流れである。ドアをたたいた後に、出てきた人が確実にマケイン支持の場合には、会話も続かないことだし、「Have a nice day!(良い一日を!)」と言って、失礼することになる。

私たちが回った地域は、ラテンアメリカ人の多いところ、特にプエルトリコ出身の人が多いスペイン語エリアであり、英語が全く分からない人も少なくなかった。私たちがボランティア会場で渡されたリーフレットはスペイン語のものだけ(!)であり、いかにこの国がダイバーシティ(多様性)の国なのかがよく分かる瞬間であった。NYでもなく、さらにはNYの近郊でもないこの街で、こんなに多様性が豊かなのかと、私以外のチームメンバー(全員アメリカ人)も驚いていた。しかも、話をした街の人の中には、フランス語しか分からない人(西アフリカ系)もいて、チーム4人でお手上げだった場面もあった。

そもそも、リストに載っていた家は、オバマ支持者かオバマに投票する可能性が少しでもあると判断された家だけである。というのも、こういった戸別訪問はここ数ヶ月で何度も行われており、すでに以前の戸別訪問で、明確にマケイン支持であると表明している家がどこかは分かっていて、確固たるマケイン支持者はその後に意思を180度変えることは少なく、毎回訪問して対立して嫌な思いをさせること(こちらも、する)になるし、無駄な労力と時間を使うことになるし、ということでリストから外しているからである。結果として、回ったお宅は、当然オバマ支持の人が多かった。一人、オバマでもマケインでもない候補者の支持者がいたが、親切にも「この家では私以外はオバマ支持だから、他の人にこのチラシを渡しておくよ」と言ってくれた。
 一件だけ、マケイン支持者の家をノックしてしまい、スーパー不機嫌そうな女性が出てきて「毎週毎週うるさい。この家にはオバマに投票する人は一人もいないから、もう来ないで。」と怒っていた。「リストに載っちゃってるから、毎週来てしまうの。リストからあなたの家を外すように本部に伝えておくわ」というと、そうしてくれ、と言って早々にドアを閉められてしまった。

私たちが回っている間、私たちとは別に労働組合がオバマ支持で戸別訪問していたので、一日に二回訪問者を立て続けるに受けている家も少なくなかった。もう少しバッティングしないように調整できればいいのに、とも話し合ってお互いに悩んだが、しかし、まあ、あちこちの団体が自主的にこういった活動をしていること自体は草の根活動として悪いことでもないし止めることでもないので、本部にバッティングしている事実を伝えるだけにして、とりあえず、そのまま戸別訪問は続けることにした。
 私たちがノックしたところ、すぐに怒り顔で現れて、「私は、もう不在者投票でオバマに投票してきたから、お願いだから静かにして。毎週毎週もう疲れたわ。」という人にも会った。入り口に「お断り」と書いている家には誰もノックをしないので、その人もそうすればいいのだ、というのが私のチームメートの弁。しかし、ペンシルバニアの住民も、これだけの来訪者が来ては、いかにこの州が大統領選の要なのかを感じざるを得ないだろう。マケイン派にしてもオバマ派にしても、たくさんの看板を通りに出し、街のあちこちで選挙の話がなされていた。

一度、マケイン支持者が1人、やはりリーフレットを家の前に置いて回ってるのに通りすがった。長身の男性がばりっとしたグレーのスーツに身を固めてさっそうとしており、いかにも私たちの、トレーナーやTシャツ、ごちゃごちゃワイワイした雰囲気とは大違いであった。彼は、オバマサポーターが山のように活動しているのを見て、気まずそうに、早足に去っていった。
 私たちが回ったエリアは、ラテン系の住民の多いところであったためか、オバマファンが圧倒的に多く、オバマグッズを手にしながら家をノックしていると、車道の車の中から「OBAMA!!!」「頑張れ!!!」といった声援を受け、その場が一気に盛り上がる、という場面も何度もあった。

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5.戸別訪問で住民と話をしているチームメート

■この国のダイバーシティ(多様性)
ちなみに、我らが4人チームは、白人(ニューアーク市政府の住宅部門で働く公務員・31才)、アフリカ系アメリカ人(ニュージャージー州政府の財務省で働く公務員・40代後半?)、ラテンアメリカ系アメリカ人(ドミニカ共和国出身。NPO運営。ドミニカに義足の援助などをしている50才前後)、そして、どこから見ても東アジア人な私、という、「いかにもアメリカを代表しているダイバーシティ(多様性)!!!」なチームであった。これは、チームメートのアフリカ系アメリカ人女性の言葉であったが、彼女はその言葉に続けて「オバマはこんなダイバーシティを代表しているのよ!」とも。4人は全員女性であり、すばらしいチームワークで一日中楽しく過ごした。例えば、ラテンアメリカンの彼女は、やる気満々で、近くにあった床屋を通りすがるたびに、「また違うお客がいるかもしれない」といって、何度も何度も同じ床屋のドアを開けては、1時間前にはいなかったお客を見つけてはリーフレットを渡していて、その都度、他の三人は笑い転げながらその彼女を手伝ったりしていた。
 なお、この国での公務員が行う選挙活動に対する規制は(詳細は知らないが)、数年前にさらに緩められ、こうした活動を仕事時間外でやるのはまったく自由だということ。政党に関するチラシをマンションのポストの投函しただけで公務員が逮捕されている日本の状況を改めて悲しく思う。

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6.床屋をのぞく・・

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7.ノックしても誰も出てこない家には、リーフレットを置く。マケインとオバマと・・・。

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8.投票場の住所を書いて渡す。

■戸別訪問を終えて
 100件近くのドアをノックしただろうか、リストの家周りをすべて終え、元のボランティアセンターに戻り、集計(ドアをノックした数、話せた人の数、オバマ支持者の数、ボランティアに協力したいと行った人の数、投票場に行くのに手伝いが必要な人の数など)を伝えた。そして、ドーナツやコーヒーをもらって、ボランティアセンターを後にした。

 私たちの戸別訪問で、オバマ票をどのくらい増やしたのかはわからない。しかし、「投票カードをなくしてしまったから投票できない・・・」と嘆いていた人に、「投票カードがなくても身分証明書があれば投票できますよ」と説明をしたり、投票場所を知らない人に投票場を教えたことは何度も何度もあったので、その点だけからしても、選挙権の行使には少しは役に立つことができたのかもしれない。

 アメリカ・ウォッチャーの私としては、選挙を肌身で感じられた大変大変有意義な日であったが、熱烈なオバマファンのチームメートたちも、自分たちが一日かけて行ったことに大変満足したらしく、明日(日曜)もくるわ、と意気込んでいた。
 
■地域の選挙対策本部(Lehigh Valley地区)にて
最後に、その地区の選対本部に行くと、多くの人が電話かけを行っていた。オバマグッズを配っていたので、私も、「Veterans for Obama(オバマを支持する退役軍人(退役軍人はマケイン支持が多いと考えられがちである))」「Republican for Obama(オバマを支持する共和党員)」などというポスターや、バッジ、顔に貼る即席タトゥーなどをもらってきた。壁に「Latino for Obama」とあったので、私が「Japanese for Obamaはないのかなー」と言ったところ、その場がどっと笑いに包まれ、ごめんねー、と何人かに言われた。さすがにJapanese for Obamaのポスターは作っていられないだろうけれど、Asian for Obamaのポスターはあってもいいと思う。実際に、アジア系アメリカ人の多い西海岸ではそんなポスターがあるんじゃないかなあ。

■歴史的な選挙・この選挙の世界中の国への影響力・感想
 みんなが今回の選挙を「ヒストリカル(歴史的)」と言い続けるので、「何がそんなに“ヒストリカル”だと思うの?」と聞いたところ、こんなにたくさんの人、特に若い人が選挙に興味を持っているのがヒストリカルである。草の根の選挙になっているのがヒストリカルである。自分で何かをしなければと思って参加している人が多いことがヒストリカルである。黒人大統領が生まれるかもしれないのがヒストリカルである。(ブッシュ政権の後に)大幅な変化を期待できるのがヒストリカルである、など、たくさんのヒストリカルが返ってきた。

 とにかく、みなが、「歴史を変える瞬間に立ち会っている!」という気持ちで選挙の応援に駆けつけている。私は、ちょっぴりアメリカ人がうらやましかった。これだけ世界中に影響力を与えられる選挙を、みんなで本気で戦える・・・日本の選挙ももちろん大事で、それが私たちの生活を変えることは間違いないのだが、イラクだったりアフガニスタンだったり中南米だったり、そして日本にも、とてつもない影響をあたえるこの選挙に、私たち非アメリカ人は一票を投じることができない。日本に「市場を開放せよ」だとか、「憲法を変えろ」だとか言って、日本政府が政策を変更することも少なくない強い影響力をもつアメリカ政府の選挙に、私たちは投票をすることができないのである。イラク人もアフガニスタン人も自分たちの国を破壊するかもしれない、自国政府よりも自分たちの生活に対する影響力の強いかもしれない政府の選挙に一票を投じることができない。しかし、ここにいる人たちは投票して、世界中の人々の生活に影響を与えることができる。そして、それがわかっているから、選対本部で私が日本国籍であることを話しても、「この選挙は世界中に影響を与えるからね」と私に米国籍がないことなど誰も気にしない。正直に、うらやましさを感じたことを認めざるをえない。とともに、もちろん不合理さも感じた。
 また、期待できる大きな変化を目の前に、人々が自分自身がその変化を実現すべく生き生きと活動をしていることも、アメリカ人に対して、私がうらやましさを感じたもうひとつの理由であった。私が日本で選挙に関わったことがあまりないために、この躍動感を知らないだけなのかもしれないけれど、世界を、国を変えるんだ、という意気込みの下、国中からボランティアがぞくぞく集まってくる、という、そんな場面は日本の選挙ではあまりないのではないか。
 アメリカの与える世界への影響力とその政策形成に市民がかかわれる可能性、そして、日本の選挙ではあまり感じることのないこの躍動感と。その二つについて、なんともいえないうらやましさと、前者については不合理さをも、ともに感じた一日であった。

■おまけ:選挙関係あれこれ
アメリカにいても、こんなに選挙づいた一日を過ごしたのは今回が初めてであったけれど、これまでもちょくちょくアメリカ人と選挙関係のイベントをともにしたことはあった。そのひとつに、最近の公開討論がある。
 両党の候補者が決まってから直接対決の公開討論が、月に一度程度?行われるのだが、その公開討論を見るのは、街でも学生たちの間でもちょっとしたイベント?になっており、その日は「討論をみんなで見ようパーティー」があちこちで開かれる。最後の公開討論だった10月14日には、街のバーやレストランで集まって討論をテレビで見たり、私の卒業したコロンビア・ロースクールでも、カフェテリアを借り切って学生がみんなで討論を見ていた。私も友人に誘われ、彼の家で、テレビを囲んで討論を見た。
 また、9月に、コロンビア大学にオバマとマケインが来て討論会が行われたこともあり、その時は、メイン会場だけでなく、青空スクリーンがキャンパスの広場に出され、広場は何百という学生で埋め尽くされた。
 日本で、党首討論を友達と見ようという学生は全国に何人いるだろう。「討論をみんなで見ようパーティ」最近の日本で開かれたことってあるんだろうか。

(傍論だが、9月の公開討論の時、偶々私はイギリスにおりロンドン大学の寮に泊まっていた。寮の学生ホールでロンドン大学の学生がテレビの前に集まり、アメリカ大統領の公開討論をみなで見ていたのが、大変印象的であった。)
 
■ 選挙当日・・・
 さて、あと2日で選挙である。アメリカでは、当日、投票妨害がなされることが少なくなく、それを防ぐべく、当日も多くのボランティアの呼びかけがなされている。投票会場の外にボランティアが待機して皆が適切に投票できるよう監視したりするらしい。たとえば、身分証明書を見せれば投票できる(州によって違うかも)のに投票カードがないと投票できない、といわれて投票を断られたり、投票時間内なのに時間外だと言われて妨害されたりする、との話を聞いた。さらに弁護士資格者は、当日何か問題が生じたときに、電話での問い合わせに答えるというボランティアもあると聞いた。
 私自身の選挙当日の過ごし方は模索中だが、やはり夜は、投票結果を見るパーティー。何時に結果が明らかになるか、接戦の具合がわからないが、私もアメリカ人の友達とパーティーに参加する予定。選対本部からもらってきた「OBAMAタトゥー」でもつけて・・・。


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9.笑いのたえなかった仲良しチームメートと。

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10.投票所となる教会

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11.選挙対策本部の様子を外から


ペンシルバニアでは、NYにいるだけでは分からない興奮を味わうことができて、最高に満足した一日であった。これからも大統領選、そして、アメリカ・ウォッチャーを続け、面白いことを見つけ次第発信していきたい。
(→猿田佐世のNY便りhttp://www.news-pj.net/npj/saruta-newyork/index.html)

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各国からの留学生に囲まれて

各国からの留学生に囲まれて

■世界42カ国からの学生
 5月末には、ロースクール卒業である。時がたつのは早い。私の通うプログラムは、各国で法律家としての経験をもつ者が、アメリカ人学生に混じりながら好きな分野を集中して学ぶというもので、1年で終了。1年の間、アメリカ人の友達もたくさんできたが、日常を共にすることが多いのは世界42カ国から集まる法律家たちであった。
 留学生217人の構成は、日本人が33人で最大、続いて25人程の中国人、66人がヨーロッパ(ロシア・東欧からも少なくない)からで、25人がラテンアメリカ、残りがカナダ・オセアニア含むその他の国からである(ちなみにアメリカ人学生は約1200人いる)。年間学費だけで500万円近くかかるため、発展途上国の学生はとても少ない。アフリカからは3人(うち一人は南ア)、中東はパレスチナ人1人、イスラエル人11人(!)を除いて誰もおらず、アジアも、タイ2人とインド13人以外、発展途上国出身者はいない(ロースクールではなく、お隣の国際関係学部ではもう少しバラエティ豊かになるが。)。
 ロースクールへの留学生の多くは国際企業弁護士である。また、私のように国際人権に絞って学びたいという者も10人程いるだろうか。さらに、裁判官、検察官、政府官僚、政治家志望者などがいる(もっとも、欧米人には、国際企業法務も人権も両方やりたいという人がとても多い。アジア人には残念ながらあまり多くはないのだが。)。
 こんな国際的な環境の中にいては、日々、興味深いことばかりおきる。

■メイド 大の仲良しに、ベルギー人のアンがいる。国際人権に興味があり価値観を一番共有できる友人である。ある日、アンが、「聞いてよ!」と、興奮してやってきた。ルームメートともめているというのである。
彼女は大学の寮に住んでおり、日本風に言えば3DKマンションに学生3人で住み、一部屋ずつを一人一人の部屋にしている(NYは家賃がべらぼうに高いので、学生の多くはアパートをシェアしている。)。アンのルームメートの一人は、南アフリカからのカレン。そのカレンがアンに、家でメイドを雇おう、と言いだしたのである。アンは、
「人を使うなんて考えられない。アパートの部屋なんて狭くて、掃除するったって20分もかからないのに!私たち学生だし!」
「カレンはお皿洗ったり洗濯をしたことがないんだって!」
「カレンは、“メイドも仕事が欲しいんだから、雇われて幸せなのよ”っていうのよ。でも、そういう問題じゃないと思わない?」
「でも、カレンって南アフリカの白人でしょ。だから、カレンに怒っても仕方がないんだろうけど・・・。」
・・・その後二人は、それぞれの両親に相談することにした。その結果をアンに聞くと、
「もちろん私のお母さんは、『自分の身の回りのことは自分でしなさい』って言ったわ。『メイドなんてふざけるんじゃない』って。でも、カレンのお母さんは、『洗濯や掃除なんてあなたがすることないわ。メイドを雇いなさい』って言ったの」・・・・・。
 結局、メイドはやめになり、共用のキッチンやバス・トイレは、アンが折れて掃除をすることになり、自分の部屋くらいはカレンが自分でやることになったようである。

■上流階級
 発展途上国出身の留学生の多くは各国の上流階級の出身である。自国の家にはベッドルームが10(!)あるとか、どこへ行くにも送り迎えの車があったなどと話す。冬休みに帰国をしていたインド人の友人が、学期が始まり戻ってきて、「冬休みの間に、ハンドバックを6個、ブーツを4足買っちゃったわ」と言っていた。「卒業したらどうするの?」「私の彼氏もこっち(アメリカ)の会社でビジネスマンしてるし、私もこっちのローファーム(弁護士事務所)に勤めるわ。」こちらのビジネスローファームでは、あっという間に年収2000万円である。
 ここで発展途上国出身の学生と話していると、その国が貧しい国であるということを忘れてしまう。そんな折、インド旅行に出ている日本の知人から、「この国では道路の脇で、人が飢えて死んでいきます」というメールをもらった。

■自分の国って何だろう
 学生サークルの主催で、各国の映画を見てその国の問題について議論をしよう、というイベントがあった。私も何回か参加した。ブラジルの回では、リオ・デジャネイロの徹底的に貧しいスラムで、ドラッグを売って生活をする人々の中で抗争が起き、子どもまでもが銃を持って皆殺し合い、警察も賄賂で動くため取締りも行われない・・・という、悲しい現実を描いた映画を見た。が・・・一番ショックだったのは、その後のブラジル人学生からの説明であった。「映画は20年ほど前のもので、今はもっとひどい状況になっている。」「今はスラム間での殺し合いが頻繁である」「ドラッグの売人の平均年齢は20才以下だ」・・・それは大変だ・・・と聞いているうちに、彼らはドンドンと不満をぶちまける。「スラムはみるみる拡大している。以前は、私たちのエリアだった地域を浸食し続けているからたまらない」「私の学校は校舎を閉鎖して移さなければならなかった」「あいつらは、出産コントロール(birth control)を知らないから、次々子どもを産む」「やることがないから、犯罪しかしない。」「18才以下は刑務所でなく特別な学校(少年院?)に最大でも2年間しか行かないから、すぐ出てきてまた悪いことを繰り返す」
 ひたすら、そこにいたブラジル人5人で、貧しい人たちへの不満を30分間延々と言い続けた。当然、全員、白人。私たちが「ブラジル人」という響きから想像する、日本に出稼ぎで来ている「ブラジル人労働者」のような肌の色の人は一切いない。
いたたまれなくなって、「彼らも好きで貧しいわけではないだろうに。」「政府の対応は?」と聞くと、「政府も賄賂でしか動いていない。手のつけようがない。」「改善する方法などない。」・・・。
 「自分の国を良くする方法が全くなくて、あきらめるしかないなんて、しかも、急速な発展を続けている地域大国ブラジルで、そんなことを言ってて悲しいじゃない?」と言うと「それが現実だ」と。
ちなみにブラジルの成長はめざましい。アメリカ企業はブラジルとの取引を強く欲しており、欧州人や日本人はもちろん中国人まで就職難に苦しめられている景気の悪いアメリカにおいて、ブラジル人弁護士だけが引く手あまたである。そんなブラジルなのに・・・。

■貧困
 南アからのカレンも、インドの学生の大半も、国に戻っても未来はない、アメリカに残る、と言う。
 奨学金で留学しているインドの少数民族出身の人権弁護士の友人に、「みんな自分の国の問題から全く目を背けていて、国に戻る気がない。悲しすぎる」と訴えると、「でもね、そういう人は国に戻ったところで金儲けしかしないんだから、アメリカにいてもインドに戻っても同じなんだよ」との答えであった。
 もちろん、中には、人権のために文字通り命をかけて戦っているジンバブエ人弁護士や、インドを良くしたいと政治家志望のインド人もいる。
 他の国の人がいくら手をさしのべようと、その国の人の努力がなければ、国が良くなるはずはない。世界全体が良くなれば国境には全くこだわらない私であるが、それでも「あんたたち、もっと自分の国のために努力しようよ。苦しんでる人だけ残して逃げないでよ」と叫びたくなってしまう。
 しかし、全ては貧困・貧困・貧困である。貧困、そして格差が、各国の、才能も地位もある人々を絶望させ、これほどまでに自分の国への興味を失わせている。そして実際に、貧困は諸悪の根源である。貧困から犯罪も人権侵害も戦争も生まれる。ここでの体験で、貧困問題をなんとかしなければ世界の発展も人権の改善もない、と痛烈に感じた。
 日本が発展したのも、安全であるのも、他国に比べ貧富の差が小さかったからであることは間違いない。日本社会への教訓でもある。

■日本人の人権弁護士である私
 この原稿を書いている時、日本から「イラク自衛隊派遣は憲法9条に反し違憲」との歴史的判決のニュースが飛び込んできた。うれしくて、興奮して、いてもたってもいられない。ここにいては何もできないのだが、アメリカ人や日本人留学生の何人かに喜びを伝えた。弁護団の事務局長は、司法研修所同期で机を1年間並べた川口創弁護士。さっそくお祝いのメールを送った。
 こんなとき、人権問題や社会問題に真っ正面から取り組める人生を送っている私はとても幸せであると改めて感じる。現在の日本では、そんな取り組みはなかなか広まらなかったり、裁判所にも認められなかったりで、こんなことやってられるか!と思うこともしばしばである。しかし、自分が担当した事件でもないのに、こんなにうれしいのは、どういうことか。たまらなくうれしい。おこがましいかもしれないが、社会問題に取り組む人生は、悲しみも多いけれど、喜びも幸せも人一倍多い。豊かな人生である。
 どこの国にも問題は山積みである。まだもう少しこちらで過ごす予定ではあるが、このニュースを聞き、早く日本に戻って日本の問題に取り組みたい!という気持ちに駆られた。
(2008年 「まなぶ」 4月号掲載)

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「休み時間の教室の様子・・・ざわざわ、わいわい、はどこでも一緒。」

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「世界中から学生が集まるNY。(NYにも遅い春が来て、みんな陽だまり
を楽しんでいる)」

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「私の通うコロンビア・ロースクールの建物」

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「大教室の授業。100人くらいの授業から10人程度の授業までさまざま
。概して人権関係の授業は人数が少ない。」


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「たくさんの国からの留学生。文中のほか、なかなか日本では会えな
い国籍としては、アルバニア、セルビア、リトアニア、ボリビア、パラグアイ、ハンガリー、ブルガ
リア
・・・・」

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「アジアの学生と。東アジアの学生は英語が苦手。出身国同士で固ま
りがちになり、圧倒的マジョリティなのに存在感がないという残念な状況である。」

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«大統領選挙をついに街で感じ始めた!